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誰が為の微笑み

作者: 紫月なつめ

プロローグ


 吐く息が白く凍りつく。

 街角で長い間考え事をしていた為か、黒の厚手の外套の肩に白い雪が一センチほど積もっていた。

「寒いわけだ・・・・・・」

 肩に積もった雪を手で払いながら、イシュアは空を見上げた。

 昼を少し過ぎたぐらいの時間だが、空には灰色の厚い雲が立ち込め、その雲から真っ白な雪が風に揺られながら舞い降りている。

「それにしてもよく降る」

 プラチナ色の前髪を細く繊細な指で掻き上げる。髪に積もっていた雪がパラパラと落ちてゆく。

 昼を過ぎたぐらいの時間のはずなのに、イシュアの他に誰ひとりとして人影がない。

「ここには近づきたくないらしいな」

 もたれていた街灯から身体を起こして、改めて辺りを見渡して見る。

 遥か遠く離れた場所から人々の声が聞こえてくるような気がしたが、実際に聞こえるのは静かに舞い降りてくる雪の音だけだ。

「仕事とは言え・・・・・・因果な事だ」

 形よい唇に微かな笑みを浮かべて呟く。もし、この場に誰かがいたら、イシュアの浮かべた笑みが哀しげに見えただろう。

 背の中程まで伸びたプラチナの髪を揺らしながら歩き始める。まだ誰も歩いていない雪路の上に、イシュアの足跡が点々と刻み込まれてゆく。

 ノトルの街の西外れ。この辺り一帯に人家の姿はない。ただポツンと一軒だけ、古ぼけた屋敷が建っている。

 そう――今、イシュアの目の前にある屋敷だけが・・・・・・。

 その屋敷は古ぼけているものの、元がしっかりとした造りなのか、十日間も降りしきる雪の中でも静かに佇んでいた。

 屋敷を見上げ軽く嘆息すると、イシュアは元は立派な作りだっただろう赤錆びた門に手をかけた。

 その瞬間。

 門が燃え上がった。紅蓮の炎が瞬く間に門全体を覆い、その炎はイシュアの手を伝わって身体へと燃え広がる。

 イシュアは軽く首を振った。慌てたような様子はない。まるで炎に包まれている事など気にしていない、といった感じだ。

「幻影・・・・・・か」

 呟き門を押し開く。

 軋んだ音が響き門は内側に開いた。

 その途端に門とイシュアを包んでいた炎が跡形なく消えた。

 黒い外套も象牙色の頬も、そしてプラチナ色の長い髪も焼き跡一つなくそこに存在していた。

 雪が降り積もる木々の下を歩き、イシュアは屋敷に近づいた。遠目に見ると古びただけの印象を与える屋敷だが、近づいてよく見てみると何かもっと別な印象を受ける。

 木で出来た大きな扉の前でイシュアは立ち止まった。

「さて・・・・・・どうしていいのやら」

 扉を見つめ呟く。木で出来た何の変哲もない扉に見えるが、イシュアの琥珀色の目にはそれが途方もなく厄介な物に視えた。

 暫し思案した後に、イシュアは行動を起こした。右手をそっと扉に当てる。

 バチッ!

 手が触れた瞬間――激しい音と共にイシュアの右手が弾かれる。

「やっぱり、そう簡単にはいかないか」

 痺れる右手を見下ろしながら呟く。

 降りしきる雪がさらに勢いを増し、イシュアの外套に舞い降りる。

 軽く嘆息すると、イシュアは屋敷に背を向けて外へと歩きだした。

 気のせいか雪に包まれた屋敷から子供の声が聞こえたような気がした。



 頬を撫でる外気の冷たさにイシュアは目覚めた。宿のベッドの上だ。夜明には程遠い時間なので部屋の中は暗い。

「ゆっくり寝ることもできないのか・・・・・・」

 やれやれといった感じで呟き、イシュアはベッドの上で上半身を起こした。

 白い布が目に入る。カーテンだ。窓に沿って吊られたカーテンが風に煽られて揺れているのだ。

「私に何を言いにきた?」

 静かな口調でイシュアが声上げる。自分以外には誰もいないはずの部屋の中で、イシュアは誰に向かっていったのだろう。

 当たり前のように返事はない。風とカーテンの揺れる音だけが響いている。

「仕方ない・・・・・・」

 イシュアは軽く嘆息し、口の中で小さく何か呟いた。と、右の手の掌に小さな光が浮かぶ。光は瞬く間にその輝きを増し、部屋全体を照らし出すほどの光珠となった。

 イシュアは無造作に、その光珠を天井に目がけて投げつける。その瞬間、光珠が強烈な閃光を放ち四散した。

 強烈な光の中でイシュアは目も細めず、その光の奥をじっと見つめた。

 それはいた。光の中に浮き上がるような黒い影の形を取って。

「私に何を言いにきたのか、答えてくれないか?」

 影に向かって問いかける。

 返事はない。ただ影が一瞬だけ揺らめいた。まるで何かを訴えるように。

「私に何をさせたい?」

 影は何も答えなかった。その代わりに、その形を大きく歪め、押し開けられた窓の外へと移動した。

 カーテンが大きく揺らめく。

「付いて来いというわけか」

 小さくため息を付くと、イシュアはベッドから下りて立ち上がった。そして手早に服を着替えて腰に拳代の袋をさげる。その上に黒の外套を羽織り、影が消えた窓へ歩み寄る。 白く化粧をした町並みが夜の闇の中に浮かび上がっている。

 イシュアがいる部屋は宿の二階。地上までの高さは七メートル弱といった所だ。飛び降りられない高さではないが、素人が飛び降りるには危険だ。

 外套の肩口をしっかりと止めると、窓の縁に手を置き、イシュアはその身を翻した。軽やかでまるで空でも飛ぶような身のこなしで宙を舞い地面に降り立つ。

 軽く息を吐きイシュアは空を見上げた。銀盤のように輝く月が浮かんでいる。

 複雑な表情で月を一瞥すると、イシュアは誰もまだ足を踏み入れていない雪路を蹴って走りだした。

 影が向かった場所は分かっていた。街の西外れに建っていたあの屋敷だ。

 どれぐらい走っただろうか。イシュアは立ち止まった。息一つ乱れていない。

 目の前に屋敷がある。イシュアは門に手をかけた。昼間と同じように炎が全身を包むが、イシュアは眉一つ動かさずに門を押し開いた。炎が一瞬にして霧散した。

 雪が積もった木々の下を歩いて屋敷に近づく。昼間感じた得たいの知れない印象が、何故のものかはっきりと分かった。

 それは墓場にも似た荒涼間だった。

「――うん?」

 玄関の扉の近くでイシュアは立ち止まった。「あれは・・・・・・」

 イシュアの目に人の姿が映っていた。幼い少女が石畳の上に座っていた。年の頃は十一、二才。顔付きは可愛らしいと表現できるだろう。身につけているのは薄紅色のワンピースだった。

「お嬢ちゃん。どうかしたの?」

 声をかけつつ近づく。

「お兄ちゃん、誰?」

 少女は顔を上げた。

「私はイシュア。君は?」

「あたしはエリシュオン。この家に住んでるの」

 少女――エリシュオンは鈴音のような声で答えた。

「――この家に住んで」

 イシュアの頬が微かに動いた。それは哀しげで、そして何かを確信したような表情だ。「寒くないの? こんな所で」

「ううん、寒くないよ。あたし、雪を見るのが好きだから」

 はにかんだように笑って、エリシュオンは言った。

「そうか・・・・・・」

 エリシュオンの笑みに、イシュアは微かに相好を崩した。そして屋敷の扉に視線を戻す。「お兄ちゃんは、ここに何をしにきたの?」「この家に用事があってね」

「駄目だよ。この家には誰も入れないんだから」

 不満げな表情でエリシュオンは言った。

「どうして?」

 扉を見たままイシュアは問いかけた。

「変なのがいるんだ」

「変なの・・・・・・?」

「うん。ずっと前から変なのが家の中にいて誰も入れないんだ」

 エリシュオンの声には苛立ちのような物が混ざっていた。

「エリシュオンも入れないの?」

 イシュアが問うと、エリシュオンは小さな声で「うん」と答えた。

「そうか・・・・・・エリシュオンは家の中に入りたい?」

「えっ!?」

 エリシュオンはバッと立ち上がり、イシュアの顔を見上げた。

「入りたい?」

 微笑みながら再度イシュアが問うとエリシュオンは大きく頷いた。

「それじゃあ決まりだね。家の中に入ろう」

 イシュアは左手を扉にかざし、口の中で小さく呪文を唱えた。

 かざした左手に光の玉が浮かび上がる。イシュアはそれを扉に押し付けた。すると扉が徐々に光に包まれだす。

 イシュアは扉全体が光りに包まれたのを確認すると右手で指を鳴らした。その瞬間、扉を覆っていた光が弾け、何かが砕ける音が響いた。

「これでいいだろう・・・・・・」

 浅く息を吐いて、イシュアは呟いた。

「入れるの?」

 扉とイシュアの顔を見比べながら、エリシュオンは言った。

「ああ、入れるよ」

 微笑んで答え、イシュアは扉に手を当てた。昼間とは違い、イシュアの手は弾かれ事はなかった。

 軽く力を入れると扉は軋んだ音をあげて開いた。



 屋敷の中は黴臭い匂いがたちこめていた。長い間誰も足を踏み入れていないのか、床の上には大量の埃が積もっていた。

「暗いな・・・・・・」

 先がよく見えない通路を見渡しながら、イシュアは口の中で短く言葉を呟いた。

 その瞬間、通路の壁に無数の光が灯った。

「すごい・・・・・・」

 ぽかぁんとした顔でエリシュオンは無数の灯火を見つめた。

 それは壁に掛けられたランタンだった。それらがイシュアの力で数年ぶりに火を灯らせたのだ。

「行くよ」

 ランタンに目を奪われていたエリシュオンに声をかけ、イシュアは歩きだした。

「どこに行くの?」

「さあ・・・・・・」

 軽く首を振った。この屋敷に、あの影がいる事は確かだが、それがどこにいるかは分からない。

「なんだ。それなら、あたしが案内してあげるよ」

 イシュアの前に躍り出て、エリシュオンが自慢げな表情で言った。

「ありがとう」

 イシュアが微笑んでエリシュオンの薄茶色の髪の毛を撫でるとエリシュオンは嬉しそうに笑った。

「それじゃあエリシュオン。応接間に案内してくれるかな?」

「うん。こっちだよ」

 エリシュオンが先だって走りだす。埃一つ跳ね上げない身軽な足取りだ。

 後をついて行くイシュアは、そんなエリシュオンを見ながら、一つの思いを確信していた。そしてそれはイシュアの心に重くのしかかった。

 屋敷は外から見た通り大きく、部屋数は無数と言っていいほどあった。その中を網の目ように走る通路をエリシュオンの案内で応接室目指して歩いた。

 幾つかの通路を曲がり、小さな部屋を横断して五分ほど歩くと目的に場所についた。

 大きな部屋だった。この応接間だけで人が暮らしていくのに十分な広さがある。

「大きいな」

 イシュアが率直な感想を漏らすと、エリシュオンは嬉しそうに笑っていた。まるで自分のことを褒められたように。

「さて、どうしたものかな・・・・・・」

 ぐるりと応接間を見渡す。壁に掛けられた絵も、至るところに置かれた調度品も、全て趣味がよく嫌みな所がない。

「――うん?」

 微かに眉を寄せて一点を凝視する。ランタンの光が届かない暗闇の中に、さらに濃い影のようなものが見えた。

「エリシュオン。私の後ろに隠れて」

 イシュアは言うのと同時に闇に向かって右手を突き出す。

 刹那。火花が散った。

 闇の中から黒い矢が放たれ、それがイシュアの眼前で弾け飛んだのだ。

「何なの!?」

 イシュアの後ろで小さな身体をさらに小さくして、エリシュオンが悲鳴に近い声をあげた。

「大丈夫。私の後ろにいれば安心だから」

 優しい口調で後ろのエリシュオンに語りかけ、イシュアは暗闇の中の影を睨んだ。

「私を呼んでおいて、なぜ攻撃してくる?」

 返事があるわけがない。その変わりか部屋の調度品が唸るような音をあげてイシュアを襲った。

「無駄なことは止せ。私にはこんな物は効かない」

 次々に飛んでくるテーブルや絵画はイシュアの眼前で粉々に砕け散った。

「姿を現す気がないなら、無理やりにでも出て来てもらうぞ」

 右手を突き出しつつ、左手で空中に記号のような物を描く。

 と、空中に描かれた記号から眩い閃光が放たれる。閃光はランタンの光さえ打ち消し、部屋の中から暗闇を一欠けらも残さず消し去った。

 閃光の中に、その影は浮かんでいた。宿屋で見た時と違い、かなり形がはっきりとしている。影が保っている形は人だった。背丈はイシュアの腰ぐらいまで。かなり小柄だ。

「何なのあれ?」

 イシュアの後ろから少し顔を覗かして、エリシュオンが問う。

 イシュアは何も答えなかった。ただ少し哀しそうに笑って見せた。

「さあ、私をここに呼んだ理由を教えてもらおうか」

 イシュアが言うと影はビクンとその人形を揺らめかせた。困惑しているような素振りだ。「私は君に危害を加えるつもりはない」

 穏やかな口調で言い、イシュアは影をじっと見つめた。

『アタシ・・・・・・助ケ・・・・・・欲シイ』

 掠れてひどく聞き取りにくい声がした。

「助けて欲しい・・・・・・?」

 ふと眉を寄せてイシュアは呟き、次の質問をしようとした瞬間、目を見開いた。

 影が光の中に溶け込んでいったのだ。いや正確に言えば人形を保っていた闇の粒が形を留める事を止めたのだ。

「逃げられた・・・・・・か」

 それほど落胆した素振りもなく、イシュアは呟いて空中に描かれた記号を握り潰した。その途端に部屋を覆っていた光りは消え、ランタンが照らし出す薄暗闇が戻ってきた。

「何だったのあれ?」

「エリシュオンが言っていた変なのだよ」

 問いに答えながら応接間を見渡す。趣味がよかった調度品は全て、イシュアの力で粉々に砕け散ってしまっていた。

「さてと、エリシュオンの部屋はどこにあるのかな?」

「二階だけど」

 キョトンとした表情でエリシュオンは答えた。

「案内してくれる?」

 イシュアが言うとエリシュオンは二つ返事で「いいよ」と答えた。



 イシュアが階段を上ると軋んだ音が屋敷の中にこだました。建てられてから、かなりの年月が経っているからだろう。

 長い階段の半ばほどの所でイシュアは立ち止まった。そして見上げるようにして壁を見つめる。

「この絵は・・・・・・」

 壁にイシュアの背丈程もある巨大な絵がかけてあった。埃をかぶり多少見づらいが、人物画だという事が視認できた。

「どうしたの?」

 階段の途中で立ち止まったイシュアに気づき、エリシュオンは振り返った。

「この絵は?」

「パパとママ、それにお姉ちゃんとあたしの絵よ」

 ちょっと哀しそうな目をしてエリシュオンは答えた。

「・・・・・・」

 イシュアは何も言わなかった。無言のまま壁に掛けられた絵を見つめた。父親と母親の下で無邪気に笑う二人の少女の姿が克明に描かれている。

「行こう」

 イシュアは短く言った。エリシュオンは微かに頷いて歩き始めた。

 長い階段を上りきると、ちょっとした広さの開けた場所に出た。元は赤かっただろう薄茶けたカーペットが敷いてある。

「エリシュオンの部屋はどの辺りかな?」

 幾つかある通路を見ながらイシュアが問うと、エリシュオンは右端の通路を指さした。

 イシュアは少しの間、エリシュオンが指さした通路を見つめていたが、軽く息を吐くと歩きだした。その後ろをエリシュオンが続く。

「どうしたの?」

 自分の後ろでまるで後込みしているようについてくるエリシュオンの気づき、イシュアは穏やかに問いかけた。

「――怖いの」

 エリシュオンは短く答えた。微かに声が震えている。

 エリシュオンの怯えに思い当たる事はあったが、イシュアは何も言わなかった。ただ歩みを遅らせて、エリシュオンと並ぶようにして小さな手を優しく握った。

 幾つかの部屋の前を通り過ぎ、突き当たりのドアの前でイシュアとエリシュオンは立ち止まった。

「ここ?」

 イシュアが問うと、エリシュオンはイシュアの手を強く握り締めて「うん」と頷いた。

 イシュアはドアの向こうを透視するかのように凝視していたが、やがてドアノブに手をかけた。意外とも思えるほど簡単にドアは外側に開いた。

「・・・・・・」

 イシュアは部屋の中から流れ出てきた霊気に軽く眉を寄せた。攻撃的でもなく、かといって友好的でもない。ひどく曖昧な感触が伝わってくる。

「気持ち地悪い・・・・・・」

 霊気を感じ取ったのか、エリシュオンが掠れた声で呟いた。

「ここで待ってるかい?」

 イシュアは振り返って穏やかに問いかけた。 エリシュオンは身体をビクンと震わせた。それは怯えと恐怖の現れだった。

「いや・・・・・・一人なるのは・・・・・・いや」

 呻くような声で呟く。

「じゃあ一緒に行こう」

 イシュアはエリシュオンの頬を優しく撫でた。

「うん」

 エリシュオンは頷いた。怯えも恐怖も、イシュアの手の温かさが忘れさせてくれた。

 イシュアは部屋の奥を見据えた。通路のランタンの光りも届かず、闇が重く立ち込めている。

「行くよ」

 イシュアはそう行ってから部屋の中に足を踏み入れた。暗くてほとんど何も見えないが、部屋がかなりの大きさだという事は分かった。

 闇の中を探るように幾度か視線を走らせてから、イシュアは左手を軽く上に掲げて低い声で何事か呟いた。左の手の掌に明かりが灯る。淡く揺らめく青色の炎だ。

「私は君に危害を加えるつもりはない」

 掲げた炎に部屋が薄暗く照らし出される。趣味のよい調度品が並べられ、窓際の部屋隅にベッドが置いてあった。

『アタシ・・・・・・怖イ・・・・・・助ケテ』

 掠れた声が部屋の中に響いた。

「何が怖いのかを教えてくれ」

 姿の見えない相手に向かってイシュアは穏やかに問いかけた。

『分カラナイ・・・・・・何ガ怖イノカ・・・・・・分カラナイ』

「分からない・・・・・・か」

 軽く嘆息し、イシュアは左手の青い炎を部屋の中心めがけてゆっくりと投げた。炎は揺らめきながら緩やかに床の上に落ちる。

 刹那。青の炎は柱と化した。やわらかな光が部屋全体を照らし出す。

 それはその中にいた。影だ。応接間で見た時と変わらず、小柄な人形を保っている。

『助ケテ・・・・・・アタシヲ・・・・・・助ケ・・・・・・』

 影は切望していた。

 呪縛からの解放を。

「死者は死の国に還る」

 限りない慈愛を込めた優しい声で言い、イシュアは左の手の掌に白銀色の光球を作り出した。

「霊鎮めの光。この光が君を死者の国へ導いてくれる」

 手の掌から光がふわりと浮かび、影めがけてゆっくりと進む。

 光は影の中に吸い込まれた。

『温カイ・・・・・・アノ時ミタイ・・・・・・』

 影の声に歓喜の響きが含まれる。

「眠りなさい。一足先に・・・・・・」

 イシュアは微笑んで影を見つめた。

 影は既に影ではなくなっていた。霊鎮めの光を受けて本来の姿を取り戻していた。

 影はもう一つのエリシュオンだった。


エピローグ


「あたし・・・・・・死んでたの?」

 掠れた声で絞り出すようにエリシュオンは呟いた。

「・・・・・・」

 イシュアは何も言わなかった。呆然としているエリシュオンの顔を穏やかな表情で見つめた。

「あたし・・・・・・」

 自分の両肩を握り締め床の上に座り込む。

「一週間前――私はエリシュオンのお姉さんから仕事を頼まれたんだ・・・・・・」

 ゆっくりとした口調でイシュアは喋りだした。

 この街で十年程前に流行った悪性の病でエリシュオンの家族はエリシュオンの姉のエトランゼを除いて死んでしまった。それからエトランゼは親戚の家に預けられ、今では中流貴族の正妻として慎ましく幸せに暮らしていたのだが、風の噂で生家に子供の幽霊が現れると知った。詳しく調べて見るとその幽霊が十年前に死んだ妹にそっくりだという。それで旅の途中だったイシュアに依頼したのだ。 もし、その子供の幽霊が十年前に死んだ妹なら安らかに眠らせて欲しい、と。

「そんな・・・・・・あたし・・・・・・信じられないよ」

 細く華奢な肩を震わしてエリシュオンは呟いた。

「君は十年前に死んでいる。十年もの間、君は自分が死んだ事を信じられなくて、ずっと彷徨っていた。つらいかもしれないけど、それが事実だよ」

 イシュアはしゃがみ込んでエリシュオンの肩に手を置いた。

「信じない・・・・・・信じられないっ!?」

 エリシュオンは絶叫した。信じたくない。自分が死んでいたなんて。

「どんなにつらくても、エリシュオン、君は死んでいるんだ。あの影は死の国へ旅立ちたいという、君の心が産んだもう一人のエリシュオンだったんだよ」

 イシュアは穏やかに微笑み、エリシュオンの華奢な身体を抱き締めた。

「あたしは・・・・・・あたしはどうしたらいいの・・・・・・?」

「死者は死の国に還る」

「死者の国・・・・・・?」

 顔を上げてイシュアの温かな琥珀色の瞳を見つめる。

「大地の果て、大海の果て、大空の果て、何処かにある死者の国で、もう一度生まれ変わるための休息をとるんだ」

「生まれ変わる・・・・・・?」

「そうだよ。人は生と死を無限に繰り返す。過去を振り返らないで、未来を信じてね」

 エリシュオンの薄茶色の髪の毛を撫でる。サラサラとした感触が指に伝わった。

「――逝かなきゃいけないんだね」

 エリシュオンは微笑んでいた。それは儚くて哀しい――全てを受け入れた笑みだった。「ああ・・・・・・そうだ」

 イシュアは立ち上がって、エリシュオンの正面に立った。

「お兄ちゃんに会えてよかった」

「エリシュオン。君の名前はとても古い言葉で『楽園』という意味なんだよ」

 頬を熱いものが流れた。十年という歳月を自分が死んだ事に気づかず、ただ彷徨うようにして過ごしてきた少女が哀れに思えた。

「『楽園』に行けたらいいな・・・・・・」

「君なら行けるよ。『楽園』に」

 イシュアはエリシュオンの頭に手を置き、低く澄んだ声で歌を紡ぎ出した。


 微睡みに眠りなさい

 瞳を閉じて遠くに映る

 黄昏に自分を重ねて

 那由他の時を越えて

 久遠の旅路の果てに

 君は眠りにつく


 イシュアが唄ったのは鎮魂の歌だった。死者をあるべき場所へと還す。

 エリシュオンの身体が淡い金色の光に包まれた。それは温かく、優しい光だった。

「お兄ちゃん・・・・・・ありがとう・・・・・・」

 それがエリシュオンの最後の言葉だった。 光りに包まれたエリシュオンの身体は、まるで幻が消えるかのように、フッと消え去った。

 後に残ったのは、エリシュオンの微かな温もりを伝えるワンピースだけだった。

「ありがとう・・・・・・か」

 ワンピースを拾って、イシュアは部屋を後にした。

 その顔には笑みが浮かんでいた。哀しげで、それでいて優しい笑み。

 誰が為の微笑みだろう・・・・・・か。



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