1,明け色の破瓜
太陽が水平線からほんのすこしだけ顔をのぞかせ、その微光が地上を薄暗く、夕暮れと見まがうほど本当に薄暗く漂う時刻、閑散とした田舎道に沿ってまばらに建つ民家、その一つの中で女が眠っていた。繊細そうな顔立ちに、ゆったりとした寝間着に包まれたその体はすらりとしている、大きく膨らんだ腹をのぞいては――、身ごもっているのだ。ベッドの真横にある木枠の大きな窓が光を取り入れてはいるものの、陽光のほとんどが外にある木々、葉を落とした木に暗い緑や衣替えした葉を揺らしている木など、それらが入り乱れる林とその先にある小高い丘に遮られて、小さな家の中は、妊婦とそのごく間近を除けば、夜中も同然だった。夜明け前の、何もかもが静止しているかのような、淡くて鮮やかな、静かで澄み渡った、一日のうちに一瞬だけ訪れる聖なるひととき。今となっては昔の話、ここではないどこかの話である。
間もなくすると、ぼんやりとした部屋の中に人影が浮かび上がってきた。ベッドから少し離れたところにある椅子に座る二人分の輪郭だ。ともに肩から厚い毛布をかぶっていて、一人は顔をしかめて寝息も立てずに眠っている、もう一人は無表情というよりは真剣な様子で妊婦を注視している。彼女らはおそらく看護師か産婆か、そういった人種なのだろう、出産という儀式を目前にしているにもかかわらず、緊張することもなく、かといって呑気でもない、ある種の専門的な荘厳さを醸していた。神聖な儀式に臨むこの三人の女性によって、部屋はまるで泉のような清浄に満たされていて、木々のざわめきも鳥のさえずりも風のうなりも、遠慮がちにこの家を避けていくのだった。――そう、三人の女性、この家には今や彼女たちしかいない。妊婦の夫は彼女の妊娠が分かると“正しい怒り”に駆られて家を出ていった、身に覚えがなかったのだ。彼は妻や知人たちの説得にも夢に現れた天使の忠告にも一切耳を傾けず、二十七代に渡って住み続けてきた土地をいともあっさり去ってしまった。それでも妊婦は体に宿るもう一つの命を打ち捨てることはしなかった、周囲の人々がみなその子が言い伝わるところの“救世主”であると信じて彼女を支えてくれたし、なにより彼女が自身の誠実を知っていたのだから。
泉が波打った。目を開けていた看護師の衣擦れの音だ、彼女は仮眠の交代をするために隣に座るもう一人の女をゆすり起そうとしたのだ、とその時、ベッドに横たわる女が苦悶の声を上げながら身をよじりだした。先ほどまで青銅の像のように静かに眠っていた彼女は、ベッドのシーツを握りしめながら顔をゆがめ、熱い、体が熱い、とうなされている。看護師が仲間の肩を素早く、とはいっても慌てているわけでも面倒がっているわけでも苛立っているわけでもない、機械的な、きわめて中立的な素早さで叩いた。するともう一人の女は、まるでずっと目覚めていたかのように、眠たげな様子を一切見せることなく、まぶたを開いた。彼女は妊婦を確認し、仲間と視線を通わせると、一目散に外へと走りだす。彼女の吐いた白い息が聖霊のように椅子の周りに漂ったが、次の瞬間にはただの白い帯になっていた。残された看護師もじっとしていない、部屋の隅からストレッチャーのような寝台を引っ張ってきてそれを広げると、妊婦を、どういうわけか彼女らのような人種が漏れなく備えているあの怪力によって、丁寧に抱き上げて、その上に女を寝かせた。そして、林の奥にある小高い丘を目指して、慎重にそれでいて迅速に寝台を押していった。この看護師自身、どうしてこのようなことをしなければならないのかよく知らなかった、しかし、それが慣習、“救世主”たる子はあの丘で出産されなければならないという慣習であったし、それが長老やその他村人、また妊婦自身の望みであるのだから、彼女としてはその要求に全力で応えるほかなかった。家の扉を慎重に通り抜けていくと、ほのかな光が冷気をともなって妊婦のつま先に、ふくらはぎに、腰に、張り付いていく。彼女にとってこの出産は、これまで、そしてこれから立ち会う無数の出産の一つでしかない、が、彼女にとってそれら一つ一つの重大さが薄れていくことはありえなかった。つまり彼女にとって、この胎児が“救世主”であることはその心構えに何ら影響を与えていなかった、心構えとは“胎児と妊婦の安全を最優先すること”である。
外は家の中よりずっと明るかった。暁の青白い光が妊婦の儚げな顔を死人のように暗く染める。来る、これは来る!看護師は直感した。あれだけは、分娩だけは、自分らにはどうしようもない、妊婦と胎児の頑丈さに頼むことしかできない!彼女はそう思うと、少しだけ焦りの表情を浮かべて視線だけを目的地に急がせた、厚い林となだらかな丘、そして、その先の明け空の位置する東方へ。東の空は、今まさに夜明けの最中なのだろう、真っ赤に燃え盛っていた。まるで血のような、――そう、あれこそがこの大地の、地球の血潮なのだ、あそこから灼熱の血液が動脈の如く世界中へめぐっていくのだ!自身の体を満たす熱い血液のような暁光を見ると、彼女は落ち着きを取り戻した、この大地がどんなときであれ人間とともにあったことを思い出して。
「大丈夫、大丈夫ですよ!さ、ゆっくりと息を整えて!」看護師は言った。聞く者を安心させる、頼もしい声、彼女らにしか出すことのできない声だ。
妊婦は苦しそうに目をつむり続けていたが、意識は覚めていたのだろう、看護師に従って呼吸を抑え始めた。口から洩れる白い息が規則的になる、それでもやはり苦しいのか、呼吸音は震えていた。看護師は枕の整え、真下にある妊婦の顔を見下ろす、ガラス細工のような顔だ。それから顔を上げて丘の方を見やる、整備された道に沿っておよそ500m、半円を描くように進まなければならない。彼女はゆっくりと力強く寝台を押した、そして、能力の許す限りの速さで、それでいて可能な限り妊婦を揺らさないように、駆け出していった。
寝台は間もなく、おそらく十分もかからなかっただろう、すぐに丘のふもとに到着した。残りは約50mほどだ。看護師は寝台から手を放して一息入れる、が、ゆっくりしてはいられない。この寒さの中でもじっとりと汗ばんだ手を両ひざにこすりつけると、すぐにまた寝台を握った。太陽はまだ丘に遮られていてその全貌を拝むことはできないが、それでも十分に明るく、また、彼女を元気づけるには十分だった。その元気を分け与えるように、看護師は妊婦の顔を見た。
「なぁんだ。思ってたよりも、ずっとたくましい顔してるじゃない。」
彼女は思わずそう声を漏らした。あの暗い部屋にずっといたせいか、妊婦を脆くて弱弱しい人だと思い込んでいたのである。しかし今のように明るい場所で見てみると、確かに繊細そうではあるが、活力あふれる顔をしていることが分かった、もちろん、太陽の明るい色が差しているおかげもあるのだろうが。これなら大丈夫、安全に終わる、それどころか彼女はきっと八十過ぎまで生きるだろう。看護師は経験からそう悟った。そして、安堵しながら、明るい気持ちで、なだらかな坂へと一歩踏み出した。がしかし、その瞬間、彼女の足は動かなくなった、急に体が重くなったのだ。女は顔をしかめて、前を見る、なぜこれほど重いのか、寝台と妊婦分の重量が加わったためだろうか?彼女はまた一歩踏み出す、体は相変わらず、いや、先ほどよりも重たくなった。看護師はどうにかしてまた一歩、更に一歩、俯いてもう一歩、歯を食いしばってもう一歩、声を張り上げてもう一歩、しかし振り向くとまだふもとから数歩しか進んでいない。彼女は絶望した、わけがわからなかった。十一月の寒さ、しかも例年以上の寒さにもかかわらず、彼女の全身からは汗が噴き出ていた。看護師は妊婦以上に呼吸を荒げて立ち止まった。ただいたずらに困惑と焦燥だけが募る。なぜこれほどまでに足が、体が重いのか、彼女には当然わかるはずもない、しかし、体が重いこと、そして、自分の力では妊婦を丘の上まで運べないということは理解できた。私だけじゃ無理、一度下まで戻ってみんなが来るのを待とう、男の人もたくさんいるんだから、妊婦と胎児のためにはそれが最善――。彼女はそう結論づけると、足を上げ、一歩下がろうとした。しかし、彼女の足はまるで根でも張ったかのように動かなかった。そして、彼女の意思に反して、足は前へと踏み出した。混乱がますます深まる。どうして、戻れないの!彼女は全身の力を込めて、寝台を全力で引っ張って足を浮かせ、そのまま体重を後ろにかけた。しかし次の瞬間、彼女の背に、すさまじい感覚がのしかかった。体中を駆け巡る悪寒に耐えきれず、看護師はすがるように両足で地面を踏みしめて激しく体を震わせた。この悪寒はなんだ?気温のせいだろうか、いや、違う。不意に、罪、という言葉が女の脳裏をよぎった。彼女はうつむきながら考えた。罪?誰の?何に対しての?……。しかし、まともに思考する間もなく、次の感覚がやってきた。誰か、何かが、自身を追い立てているという感覚だ。それはすぐ背後まで迫っているような気がした。そして、彼女が丘を下りることをそれは決して許さないということさえ確信できた。振り向けるはずもなかった。看護師は喉の奥から恐怖のうめきを絞り出すと、顔を上げた。
もはや女は自分の意思で体に力を入れていなかった、それどころか、彼女は全身の力を抜いているつもりだった。しかしそれでも、足は一歩また一歩と勝手に進んでいった。重々しく動く足のせいで、彼女の苦しみは長引いた。彼女はもう何もかも忘れて、とにかく早く丘の上にたどり着くことばかり願っていた。未知の悔悟と恐怖に責め苛まれ、死という燐光が彼女の頭を満たすようになった。看護師の顔は涙と鼻水にまみれ、その道筋は脂汗とよだれで湿っていた。ついにぼやけた視界が真っ赤に染まり、死が指先に触れたと思った途端、体が軽くなった。彼女を先ほどまで苦しめていた感覚は、まるで朝露のように消えていた。看護師は呆然としていたが、やがて目がはっきり見えるようになると、妊婦の安全を確認し、それから遠くへ、遠くに見える海の向こうに目をやった。太陽が水平線を燃やしながら半分ほど顔を出している、どうやら時間には間に合ったらしい。夜明けの日差しが体を芯から温めるのを感じながら、彼女はほっと安堵した。真っ赤になった空と海に見とれていると、下の方から大人数のざわめきが聞こえてきた。みんなが追い付いたのだろう、そう思って看護師は振り向いた。ふもとには仲間の看護師を先頭に、十数人ほどの男女が集まっていた。
「あ、シモノさん!すみません、遅れちゃって!」下から仲間の看護師が叫んだ。
妙な虚脱感に襲われていたシモノは、ただくたびれた笑みを浮かべながら手を振るだけだった。
坂を急ぐ若い看護師を追い抜いて、数人の婦人連が猛烈な勢いで上ってきた。彼女たちはシモノを素通りすると、妊婦のそばに駆け寄り、彼女を励ました。
「頼もしい限りですねぇ。」
丘の上まで来た看護師は、その光景を見て笑いながらそう言った。彼女の後ろから数人の男たちが歩いて丘を歩いてきている。その最後尾に木の根のような老人が杖をつきながら歩いているのが見えた。
「おい、長老、もたもたしてんなよ!」男たちの誰かが叫んだ。
「もたもただって?いいや、これでちょうどいい、わしには分かっとるのさ!」長老と呼ばれたその老人は威勢よく答えた。
「長老の準備がなかなか終わらなくって……、それにしても、妊婦を運ぶの大変だったでしょ?」同僚の看護師が言った。
「大丈夫、大丈夫!ひっひっふー、ひっひっふーよ!」婦人たちの方から声が上がった。
「長老!もうすっかり朝になっちまうぜ!」丘の上から男が呼び掛けた。
「馬鹿が!朝って言うのはな、太陽がすっかり全身を出した時からなんだよ、それまでは夜だ、まだ朝は半分しかやってきてないんだからな!」長老が怒鳴った。
先ほどとは打って変わってずいぶん賑やかになった夜明けに囲まれて、シモノは完全に脱力していた。体が乾いたぞうきんのように疲れ切っていたこともあるが、それよりも自分の役割がもう終わったような気がしていたのだ。
「シモノさん、大丈夫ですか?」同僚が怪訝そうに尋ねた。
「ええ、大丈夫、ちょっと疲れちゃって。」シモノは笑って言った。
「あと少し、いいえ、ここからが大事なとこじゃないですか、頑張りましょ!」
それに対してシモノが頷き返すのと、長老が引っ張り上げられるのがほぼ同時だった。その次の瞬間には、
「あ、ああ!来た、来た!看護師さん!」と婦人たちが叫んだ。
看護師たちはすぐさま寝台に近寄った。妊婦のパジャマはたくし上げられていて、そこにリンゴの実ほどの大きさのものが半分だけ見えていた。二人は真剣な表情で視線を合わせると、各々妊婦の両脇に立ち、彼女の手を握った。ここからは妊婦と胎児だけの戦いで、周りの女たちは応援することしかできないのだ。
男たちはと言えば、少し離れた場所から女たちの背中を、肝心の妊婦は見えないので、眺めているばかりだった。落ち着かなそうに手を前に後ろに組みなおす者もいれば、不安そうにうろうろする者もいた。ただ長老のみが得意げな笑みを浮かべて待ち構えていた。
「長老、あんたずいぶんと落ち着いてるのな。」一人の若者が言った。
「ああ、分かってるからな。ここまで来ればもう大丈夫だってことが。」長老は満足そうに答えた。
「ふうん、俺にはあんたが耄碌してるってことしか分からないが。」
「黙って待ってろ、“救世主”の誕生なんてめったにお目にかかれんのだからな。」
老人はそう吐き捨てると、夢見心地に目を細めながら出産の風景をむさぼるように見つめた、そこに自身の誕生の光景を求め、重ね、発見していたのである。彼は長老などと呼ばれてはいるものの、今や権力も金も、何の力も持たないただの乞食同然、食客として日々を生きているのだった。
「そういや、ここじゃあんた以来らしいね、その“救世主”さんが生まれるのは。」
若者の呼びかけに対して、長老はただ黙って頷いた。何を隠そう、この老人も数十年前、この丘の上で真っ赤な朝日に浴しながら産声を上げたのだ。
「しかしねぇ、イマイチ俺にゃピンとこないんだよ、救世主の偉大さってやつが。」若者は鼻を鳴らしながら続ける。「あんただって、結局無一文になって村に逃げ帰ってきたわけだし。」
「はん、何も知らんからそんな口を利けるのさ。村を出て五十年間、わしがどれほどの事業を起こして、そして成功させてきたか、いずれちゃんと聞かせてやるわい。」
「いやいい、結末は知ってるから。奴隷事業に手を出して、まんまと反乱されて、全部ほっぽり出して逃げてきたって結末をね。ま、命があっただけでも奇跡だと思うぜ。」
寒そうに手をこすり合わせながら離れていく若者の背に向けて、老人は歯がゆそうに叫ぶ。
「あれはそもそも慈善事業だったんだ、それをあの奴隷どもがいい気になりおって!それにわしはあいつらを救ってやったんだぞ、一生分の財産をあそこに残してきたんだからな!ああクソ、聞かんか、青二才!」
彼が若者を杖で殴ろうと枯れ枝のような腕を振り上げたその時、女たちの方から歓声が沸いた。
「あぁ、お疲れ様、頑張ったね、頑張ったね!」
「あら女の子よ、女の子よ!」
「ぬるま湯とタオルとタライ!早く早く!」
女たちが次々に、我先にと狂ったように騒ぎ立てる。その歓喜の狂騒の中に、赤子の泣き声がかすかに聞こえた。それにより事態を把握した男たちは安堵した面持ちで彼女たちのもとへ近寄った。長老も大急ぎで近づこうとする、しかし、ほとんど萎えている足は、思うように進んでいかない。それを見かねた男たちが彼を両脇から支えてやって、寝台のそばまで連れていった。赤ん坊は母親のそばでまぶしい夜明けの色に染まりながらケットに包まれて眠っていた。
「ほら、長老、あんたの後輩だぜ。」若者が茶化すように言った。
老人の耳には何も聞こえていなかった、その目には赤子以外の何も映っていなかった。彼の心臓が高鳴る、息が上がり、足が震え、もうその場に立っていられなくなる。長老は地面によろよろとへたり込むと、声を上げて涙を流し始めた。喜びと苦しみ、懐古と後悔、そのような相反する感情が彼を中心にぶつかり合い、老人は耐えられなくなったのである。――また赤子となって人生をやり直せたのなら。この瞬間から、そのような願いが死に損ないの乞食老人を貫いたのだった。
「どうしちゃったんだい、長老は?」誰かが言った。
「さぁね、年だし涙もろくなってるんだよ、きっと。」誰かが答えた。
冬の夜明けはあまりにも寒いため、出産の興奮も冷めやらぬなか、誰もかれもがもう太陽に背を向けて丘を下り始めている、長老も若い男に背負われているようだ。皆の関心はすでに出産祝いの祭りへと移り変わっていて、看護師たちを手伝おうとする者は誰一人いない。看護師の一人は妊婦だった女の体を温タオルで拭くために、再び彼女のパジャマをたくし上げた。彼女の目に映ったのは、女の、今や母親になった女の白くて健康的な脚と、その両脚の間、ちょうど太ももの間でシーツにしみ込んだ、羊水の跡だった。それは燃え上がる太陽の赤い光に染め上げられて、まるで破瓜の血のようだった。……いや、ひょっとすると、本当に血だったのかもしれない。