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僕一人で捜査を始めてから、五日が経った。
相変わらず大した情報はない。
進展はなく、僕の客としての振る舞いだけが上手くなっていく。
僕は、自分が思っていたより器用なのかもしれない。
三日目、何人か辞めてから連絡がつかなくなったと言う子を見つけたため、連れ出して彼女たちの名前も聞けた。
アイリスもエイミーの名前もなかったが、人身売買の手がかりになるかもしれない。
その分払うお金は増えたけど。
喫茶店へだけ行って別れようとした僕に、その子はだいぶ驚いていた。
彼女たちの服装や化粧の仕方を見る度に、あの金髪のアイリスを思い出す。
やはり似ている。
この関係で働いていることは間違いない。
そして胸がちくりと痛んだ。
一体どれだけの男性と夜を共に過ごすのだろう。
僕なんて、何千人のうちのたった一人に違いない。
また出会えるだろうか、彼女に。
リストは残り三店舗だった。
可能性はどんどん減っていく。
そう思っていた六日目、今にも雨が降りそうなどんよりとした夜、アイリスはいた。
一軒目、席に着いて間もなく現れたのが彼女だった。
僕は固まってしまった。あまりに衝撃的で、かつ美しかったからかもしれない。
エメラルドグリーンのパーティドレス。
長い金色の髪は後ろで編んでまとめていた。
青い瞳は上品に僕を見返して微笑む。
「はじめまして、アイリスです」
動揺しまいと、僕はこっそり深呼吸する。
ここからどうすればいいだろう。
連れ出して話を聞かせてもらえるだろか。
周りの目がある中でできる会話には限りがある。
アイリスは隣に座り、酒を作ってくれる。
肩から手先まで、すらりとした肌が伸びる。
薄暗がりの中でも、その美しさは明らかだった。
今日の僕はアンディだ。
平静な応対に努めるべきだ。
「薄めの水割りでいいかしら」
「濃くていいですよ」
僕がそう言うと、アイリスはくすっと笑った。
「この後があるでしょう、飲みすぎは良くないですよ」
「…この後?僕ともう一軒行ってくれるんですか?」
僕の質問は的を射なかったようで、アイリスは含んだように笑っただけだった。
彼女は僕が捜査で来ているのを分かっているのだろうか。
「大学生の方ですか?何を勉強されているんです?」
「香港大の経済学です」
冷静に答えた僕を、彼女は面白そうに見つめた。
「レイモンド先生はお元気?」
「ええ。…元気だと思いますけど」
もちろん知らない。
「お知り合いですか?」
「たまにこのお店に来てくださるの。あなたの右隣の机の方だけど、気付かなかった?」
アイリスはちらと視線を動かして、女性を両脇に座らせている一人のおじさんを指した。僕は慌ててそれを追う。
先生の顔なんて、知るわけがない。僕は閉口して俯いた。
彼女はきっと僕で遊んでいる。
「あまり真面目ではないんです、こう見えて。まだ数える程しか授業に出ていません」
「それなら今日は、少しくらい波風を立たせてもいいわね」
アイリスはにこりと微笑んだ。
僕が理解できないでいると、黒服のボーイが彼女を呼びに来た。
他の席から指名があったようだ。
本人に会えても、ここでは時間が限られる。
毎日通って機会を窺うしかないのだろう。
アイリスは軽く返事をして立ち上がるかと思いきや、振り返って僕にふわりと抱擁をした。
「この後、ちょっと付き合ってくれる?」
彼女は耳元でそう囁いた。
多分僕にしか聞こえていない。
一体何のことだろう。
アイリスはこだわりなく去っていった。
彼女の背中を視線で追うが、何の合図もなく、遮られてすぐに見えなくなった。
耳がとてつもなく熱い。
そして、僕に触れた柔らかな肌。
僕はまじないのように心の中でアンディの名前を繰り返す。
気を取り直すために薄めの水割りを大量に口に含んだ。
なぜか酒の味はほとんどしない。
どうして彼女はいつも不思議なんだろう。
大空に垣間見る美しい虹のような人だ。
掴むことができず、あっという間に消え去ってしまう。
離れた席で微かにアイリスの声が聞こえる。
受け合う男性はおじさんくらいの年齢だろう。声を弾ませていた。
「お隣、いいですか?」
声を掛けづらそうに、一人の女性がそっと立っていた。
「もちろんです」
僕は意識が飛んでいたことに気付き、慌てて座りなおす。
見れば初々しい小柄な女の子だった。
「サラです。よろしくお願いします」
僅かに声が震えている。
きっとまだ働き始めたばかりなのだろう。
「リュウと言います」
彼女を安心させようと、僕は朗らかに微笑んだ。
サラが作ってくれた水割りは、かなり濃かった。
僕は一口飲んで咳き込む。
「今日が初出勤?」
「実はそうなんです」
「こういう関係の店なんて星の数ほどあるでしょう。どうしてここに?」
彼女はリラックスしてきたのか、ふっと笑顔を浮かべた。
「私、前に働いていたお店で、オーナーから暴力を受けていまして。たまたま通りかかったアイリスさんが助けてくれたんです。彼女には来るなって言われたんですけど、後を追わずにはいられませんでした」
「…じゃあ、さっきのアイリスって子に憧れて来たってことか」
「はい。美しさと強さを併せ持った、素晴らしい方です」
僕にも分かる。彼女の魅力。
「もしかして、オーナーも回し蹴りで倒した?」
「アイリスさんのこと、知っているんですか」
「いいや、一度街で見かけただけだよ」
サラは少し残念そうに相槌をした。
「助けられたあと、住むところや食事の面倒を見てくれていたんです。アイリスさんが凄い人だとは分かっても、深くまではなかなか見せてくれません。彼女はいつも完璧で、隙がないんです。でも、アイリスさんの育てのお母さんと、妹さんもこういう夜のお仕事をされていたと話していたので。だから私、ここに来れば、ずっとアイリスさんの近くにいられるかと思って」
育てのお母さんと妹?
今回の一番の聞き込み内容かもしれなかった。
ただ、警察としては聞けない。あくまでも、客として探らなければならない。
「妹さんたちはここで働いていないの?姉妹ならきっと、綺麗な人だろうね」
「はい。お見かけしたことがありません。他のお店なのか、今は辞めているのかもしれません。連絡がつかないみたいで…」
僕は何かが繋がった気がした。
そして考えを巡らす前に、騒がしく非常ベルが鳴り響いた。
客やスタッフが何事かと動揺している。
調理場の奥から鈍い爆発音、煙が漏れているのが見えた。
「火事だ!」
ボーイの大声と共に、女性たちが悲鳴を上げる。
客や女性がスタッフに導かれてばたばたと出て行く。
必死に逃げる足音、誰かが倒したグラスの割る音がより緊張感を醸し出す。
そんな中、動かずに立っている人物が居た。
アイリスだった。