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もう行くしかなかった。
僕はちらと振り返ってアンディの顔を見てから、そっと会議室を出た。
もらった電話番号の紙は、登録した後お守り代わりに財布に入れた。
僕はしっかりとファスナーを閉めると、意を決して歩き出した。
情報課の場所はぼんやりとした記憶しかなかったが、無事に迷わずたどり着いた。
ランという人はいるだろうか。僕は入口からそっと顔を覗かせる。
軽く二十人以上はいるだろう。皆パソコンに向き合い、黙々と仕事をしていた。
僕は「失礼します」と小さく言う。
彼女は前と同じ席に居た。
後ろからそっと近づく。
「ランさん。アンディさんに言われて来ました。ハン・フェイといいます」
小気味の良いキーボードのタッチ音が鳴っていたが、急にぴたりと止まり、彼女はくるりと振り返った。
「外へ出ましょうか」
彼女はそれだけ言うと、すたすたと歩き出した。
僕は彼女の後ろ姿を黙って見守る。
ふわりとした茶髪が揺れる。
業者が使う勝手口と思われる場所から、僕たちは出た。
彼女は僕に紙袋を手渡す。
「中に三日分の服と学生証、財布と小物が入っているわ。上手く組み合わせて使いなさい」
「ありがとうございます」
僕は紙袋の中を見てみる。高そうなシャツやズボンだった。僕が買うことのない、柄入りで派手なものだ。
「本当は、アンディさんが自分で調べるつもりだったんですよね?」
どうしても気になって、訊ねずにはいられなかった。
ランは腕を組んで、壁に持たれる。
「大丈夫。彼は九割がたこうなることを予期していたわ。もちろん、自分が捜査するつもりも少しはあって、ちゃんともう一式用意はしていたけど」
「昨日の時点でここまで…?捜査打ち切りも、知っていたんですか」
「今日の招集の連絡があった時に、可能性としては浮かんでいたでしょうね。アンディは何手先までも考え尽くす人だから」
「本当に凄い人ですね、アンディさんは」
ひとり言として言ったつもりだったが、ランはしっかりと聞き取っていた。
「彼の世代ではずば抜けているでしょうね。でも、ここ二年くらいは全然音沙汰がなかった。あんなに張り切って捜査をしているのは、本当に久しぶりなのよ」
ランはうっすらと笑った。
「…ジャックさんと解散してからなんですよね」
「なんだ、知っていたのね。年齢差はあったけど、結構名コンビだったのよ。あの二人にはよく使われたけどね」
どこか懐かしそうな表情だった。彼らから頼りにされて、それに応えられる嬉しさがあるのだろう。信頼関係はそうして生まれていくのだ。
「アンディを助けられるかどうか、今はあなた次第よ。頑張ってね」
軽い調子だった。負担にならない程度に、僕を励ましてくれたのだろう。
彼女がした話も、それに繋がっている気がした。全ては僕のやる気を出させるためだ。
僕は頭を下げると、ランが教えてくれた細い裏道を抜けて大通りへ出た。
時計を見れば昼過ぎだった。
まだ店の営業が始まるには時間がある。
僕は家の方面に向かいながらも、旺角の通りを縫うように歩いて行った。
どこかにアイリスがもしいるなら、見つけられるように。
極力アンディのお金は使いたくなかった。
リストの最後まで探して、結局見つからなかったら僕のせいだ。その焦りが僕を家に帰らせようとしなかった。
アンディはきっと報告書に追われている。寝る間も惜しむ可能性すらあるのに、僕が遊んでいる訳にはいかなかった。
昨日アンディと聞き込みをしたあの交差点で、僕は同じように通り過ぎていく人を眺めた。曇っているせいかそれほど寒くなく、誰もが活発に歩き去っていく。
そして空が暗くなり始めると、一度帰宅して着替えた。
所々擦り切れたジーンズ、ぶかっとしたシャツ。金のチェーンのネックレス。
鏡を見れば完全に負けていた。幼子に親の服を着せているようなものだ。
アンディの趣味なのか、あえて彼が僕のイメージと真逆の服を選んでいるのかは教えられていない。
僕はせめてもと、棚の奥にしまいこんでいたワックスを出してきて、髪にボリュームを持たせた。
うん、少しは若くなった気がする。
大学生と言うよりは高校生止まりに見えるが、これ以上はどうにもできない。
二つ折りの革財布の中には、免許証と学生証が入っていた。
リュウ・フォン。二十一歳。
嘘と真実を、怪しまれない程度に創造していく必要がある。
僕は自分のことをこれっぽっちも信じていないが、やってみるしかないだろう。
封筒の札を適当に財布に入れ、リストを見て店名を覚えてから場所を調べた。
ごつごつした白いスニーカーを履く。
隣近所の住人に目撃されないよう、僕はひっそりと家を出る。
歩き方や表情は、アンディを手本にした。
堂々としているし、時には荒さもある。この格好にはぴったりだ。
もし本人にそう言ったら、もちろん怒られるだろうけど。
陽はすっかり落ちていた。
このネオンの街が、少しだけ綺麗に見えるのは何故だろう。
これから殺されるかもしれないのに。
ビルが立ち並ぶ細い通りの二階に目的の店はあった。『蝴蝶夜総会』ピンクの看板にそう書かれていた。
迷う素振りは見せられない。
僕は扉を開けた。
薄暗い店内に、上から鈍く光るシャンデリアが吊るされている。
受付に立つ女性が「いらっしゃいませ」と声を掛けた。
大した説明もなく、黒服の男性が僕を席まで案内する。
顔は前に向けたまま、視線だけ動かす。
五組ほど客がいたが、アイリスらしき人はいない。彼女が更に姿を変えていないことを願うばかりだ。 あの金髪は探しやすい。
そう思った矢先に現れたのは、金髪の女性だった。
一瞬緊張が走ったが、よく見れば顔が違った。
真っ直ぐなストレートの長髪を、ハーフアップで束ねている。
綺麗な人ではあったが、アイリスよりは小柄で丸顔だった。
興味津々の瞳で僕を見てくる。
「ミウです。はじめまして」
距離が近い。
僕は退きたくなるのを堪え、代わりに手に力を込める。
「水割りでいい?」
彼女は構わず続ける。
僕が何も言わないため、ミウという女性は不思議そうに見つめてから、グラスにウイスキーと氷、水を入れてかき混ぜた。
「ありがとう」
差し出されたグラスを受け取りながら、僕ははっきりと言った。
アンディなら、きっとこういう場でも舞い上がらない。
静かに酒を飲むだけだろう。
一口含んだ水割りは、美味しくなかった。
僕は苦い顔で水面を見る。
酒が入れば理性を失う。僕は仮にも仕事中だ。
「ここは初めて?」
ミウがにっこりと訊ねた。
「ああ」
アンディを装うのは良いとしても、情報を聞き出さなければならない。どうすればいいだろう。
「君は長いの?」
「うん、四年くらいにはなるかな」
「長いね。こういう仕事は、入れ替わりが早いんだってね」
「そうね、辞める子は早いかも。店との相性もあるしね」
ミウはそう答えてから、まじまじと僕を見た。
「あなたって不思議。ここに来る男の人の雰囲気と違う。がつがつしていないというか、下心が無さそうっていうか」
こんな簡単に見抜かれてしまうのか。
「本当にそう思う?」
僕はミウの顔を間近で見返した。
一番男前だと思う笑顔を浮かべて。
これが精一杯だった。
ミウの頬が少しだけ赤らんだ気がした。
「実は、従妹がこの旺角の夜総会で働いているらしいんだけど、場所を教えてくれなくて。探しているんだ」
「そうなの?なんて言う子?」
「アイリスっていうんだけど」
「…アイリス。聞いたことないな」
ミウの様子を見れば、本当に心当たりがないことが見て取れる。
その名前で働いているかどうかも分からないし、見せられる写真もない。
ここでの捜査はここまでだろう。
他にも二人席に着いてくれた子がいたため、同じように聞いたが、返ってくる言葉は一緒だった。
五〇〇〇ドル。
請求された額は目を丸くするものだった。たった一杯しか飲んでいないのに。
だが、態度に出してはいけない。
この額くらい当たり前だと思う人間を演じているのだ。
僕は財布からさらりと札を取り出すと、投げるように置いた。
「また来てね」
ミウが最後手を振ってくれた。
僕は僅かに頬を緩ませながらも、振り返らずに店を出た。
犯罪組織の運営ではあっても、働く子に罪はない。
彼女やアイリスも、望んで働いている訳ではないだろう。
生きていくために、選んだ手段だ。
僕が今警官として働いているように。