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BLUE CHAIN  作者: 中安叶子
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8

 もう行くしかなかった。

 僕はちらと振り返ってアンディの顔を見てから、そっと会議室を出た。

 もらった電話番号の紙は、登録した後お守り代わりに財布に入れた。

 僕はしっかりとファスナーを閉めると、意を決して歩き出した。

 情報課の場所はぼんやりとした記憶しかなかったが、無事に迷わずたどり着いた。

 ランという人はいるだろうか。僕は入口からそっと顔を覗かせる。

 軽く二十人以上はいるだろう。皆パソコンに向き合い、黙々と仕事をしていた。

 僕は「失礼します」と小さく言う。

 彼女は前と同じ席に居た。

 後ろからそっと近づく。

「ランさん。アンディさんに言われて来ました。ハン・フェイといいます」

 小気味の良いキーボードのタッチ音が鳴っていたが、急にぴたりと止まり、彼女はくるりと振り返った。

「外へ出ましょうか」

 彼女はそれだけ言うと、すたすたと歩き出した。

 僕は彼女の後ろ姿を黙って見守る。

 ふわりとした茶髪が揺れる。

 業者が使う勝手口と思われる場所から、僕たちは出た。

 彼女は僕に紙袋を手渡す。

「中に三日分の服と学生証、財布と小物が入っているわ。上手く組み合わせて使いなさい」

「ありがとうございます」

 僕は紙袋の中を見てみる。高そうなシャツやズボンだった。僕が買うことのない、柄入りで派手なものだ。

「本当は、アンディさんが自分で調べるつもりだったんですよね?」

 どうしても気になって、訊ねずにはいられなかった。

 ランは腕を組んで、壁に持たれる。

「大丈夫。彼は九割がたこうなることを予期していたわ。もちろん、自分が捜査するつもりも少しはあって、ちゃんともう一式用意はしていたけど」

「昨日の時点でここまで…?捜査打ち切りも、知っていたんですか」

「今日の招集の連絡があった時に、可能性としては浮かんでいたでしょうね。アンディは何手先までも考え尽くす人だから」

「本当に凄い人ですね、アンディさんは」

 ひとり言として言ったつもりだったが、ランはしっかりと聞き取っていた。

「彼の世代ではずば抜けているでしょうね。でも、ここ二年くらいは全然音沙汰がなかった。あんなに張り切って捜査をしているのは、本当に久しぶりなのよ」

 ランはうっすらと笑った。

「…ジャックさんと解散してからなんですよね」

「なんだ、知っていたのね。年齢差はあったけど、結構名コンビだったのよ。あの二人にはよく使われたけどね」

 どこか懐かしそうな表情だった。彼らから頼りにされて、それに応えられる嬉しさがあるのだろう。信頼関係はそうして生まれていくのだ。

「アンディを助けられるかどうか、今はあなた次第よ。頑張ってね」

 軽い調子だった。負担にならない程度に、僕を励ましてくれたのだろう。

 彼女がした話も、それに繋がっている気がした。全ては僕のやる気を出させるためだ。

 僕は頭を下げると、ランが教えてくれた細い裏道を抜けて大通りへ出た。


 時計を見れば昼過ぎだった。

 まだ店の営業が始まるには時間がある。

 僕は家の方面に向かいながらも、旺角の通りを縫うように歩いて行った。

 どこかにアイリスがもしいるなら、見つけられるように。

 極力アンディのお金は使いたくなかった。

 リストの最後まで探して、結局見つからなかったら僕のせいだ。その焦りが僕を家に帰らせようとしなかった。

 アンディはきっと報告書に追われている。寝る間も惜しむ可能性すらあるのに、僕が遊んでいる訳にはいかなかった。

 昨日アンディと聞き込みをしたあの交差点で、僕は同じように通り過ぎていく人を眺めた。曇っているせいかそれほど寒くなく、誰もが活発に歩き去っていく。

 そして空が暗くなり始めると、一度帰宅して着替えた。

 所々擦り切れたジーンズ、ぶかっとしたシャツ。金のチェーンのネックレス。

 鏡を見れば完全に負けていた。幼子に親の服を着せているようなものだ。

 アンディの趣味なのか、あえて彼が僕のイメージと真逆の服を選んでいるのかは教えられていない。

 僕はせめてもと、棚の奥にしまいこんでいたワックスを出してきて、髪にボリュームを持たせた。

 うん、少しは若くなった気がする。

 大学生と言うよりは高校生止まりに見えるが、これ以上はどうにもできない。

 二つ折りの革財布の中には、免許証と学生証が入っていた。

 リュウ・フォン。二十一歳。

 嘘と真実を、怪しまれない程度に創造していく必要がある。

 僕は自分のことをこれっぽっちも信じていないが、やってみるしかないだろう。

 封筒の札を適当に財布に入れ、リストを見て店名を覚えてから場所を調べた。

 ごつごつした白いスニーカーを履く。

 隣近所の住人に目撃されないよう、僕はひっそりと家を出る。

 歩き方や表情は、アンディを手本にした。

 堂々としているし、時には荒さもある。この格好にはぴったりだ。

 もし本人にそう言ったら、もちろん怒られるだろうけど。

 陽はすっかり落ちていた。

 このネオンの街が、少しだけ綺麗に見えるのは何故だろう。

 これから殺されるかもしれないのに。

 ビルが立ち並ぶ細い通りの二階に目的の店はあった。『蝴蝶夜総会』ピンクの看板にそう書かれていた。

 迷う素振りは見せられない。

 僕は扉を開けた。

 薄暗い店内に、上から鈍く光るシャンデリアが吊るされている。

 受付に立つ女性が「いらっしゃいませ」と声を掛けた。

 大した説明もなく、黒服の男性が僕を席まで案内する。

 顔は前に向けたまま、視線だけ動かす。

 五組ほど客がいたが、アイリスらしき人はいない。彼女が更に姿を変えていないことを願うばかりだ。 あの金髪は探しやすい。

 そう思った矢先に現れたのは、金髪の女性だった。

 一瞬緊張が走ったが、よく見れば顔が違った。

 真っ直ぐなストレートの長髪を、ハーフアップで束ねている。

 綺麗な人ではあったが、アイリスよりは小柄で丸顔だった。

 興味津々の瞳で僕を見てくる。

「ミウです。はじめまして」

 距離が近い。

 僕は退きたくなるのを堪え、代わりに手に力を込める。

「水割りでいい?」

 彼女は構わず続ける。

 僕が何も言わないため、ミウという女性は不思議そうに見つめてから、グラスにウイスキーと氷、水を入れてかき混ぜた。

「ありがとう」

 差し出されたグラスを受け取りながら、僕ははっきりと言った。

 アンディなら、きっとこういう場でも舞い上がらない。

 静かに酒を飲むだけだろう。

 一口含んだ水割りは、美味しくなかった。

 僕は苦い顔で水面を見る。

 酒が入れば理性を失う。僕は仮にも仕事中だ。

「ここは初めて?」

 ミウがにっこりと訊ねた。

「ああ」

 アンディを装うのは良いとしても、情報を聞き出さなければならない。どうすればいいだろう。

「君は長いの?」

「うん、四年くらいにはなるかな」

「長いね。こういう仕事は、入れ替わりが早いんだってね」

「そうね、辞める子は早いかも。店との相性もあるしね」

 ミウはそう答えてから、まじまじと僕を見た。

「あなたって不思議。ここに来る男の人の雰囲気と違う。がつがつしていないというか、下心が無さそうっていうか」

 こんな簡単に見抜かれてしまうのか。

「本当にそう思う?」

 僕はミウの顔を間近で見返した。

 一番男前だと思う笑顔を浮かべて。

 これが精一杯だった。

 ミウの頬が少しだけ赤らんだ気がした。

「実は、従妹がこの旺角の夜総会で働いているらしいんだけど、場所を教えてくれなくて。探しているんだ」

「そうなの?なんて言う子?」

「アイリスっていうんだけど」

「…アイリス。聞いたことないな」

 ミウの様子を見れば、本当に心当たりがないことが見て取れる。

 その名前で働いているかどうかも分からないし、見せられる写真もない。

 ここでの捜査はここまでだろう。

 他にも二人席に着いてくれた子がいたため、同じように聞いたが、返ってくる言葉は一緒だった。

 五〇〇〇ドル。

 請求された額は目を丸くするものだった。たった一杯しか飲んでいないのに。

 だが、態度に出してはいけない。

 この額くらい当たり前だと思う人間を演じているのだ。

 僕は財布からさらりと札を取り出すと、投げるように置いた。

「また来てね」

 ミウが最後手を振ってくれた。

 僕は僅かに頬を緩ませながらも、振り返らずに店を出た。

 犯罪組織の運営ではあっても、働く子に罪はない。

 彼女やアイリスも、望んで働いている訳ではないだろう。

 生きていくために、選んだ手段だ。

 僕が今警官として働いているように。



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