6
アンディは店の場所を知っているようだった。
昨夜調べた可能性もあるが、足取りに迷いがなかった。
僕に至っては、あの日ふらふらとさ迷ってたどり着いただけのため、彼について行くことしかできない。
あの大通りから八分程。それほど遠くはなかった。
アンディは、扉を開ける前に一度立ち止まる。
小さく深呼吸しているように見えた。
鈴のような心地良い音が鳴る。
先に入ったアンディはすぐに歩みを止め、カウンターの奥に立っているマスターと向かい合っていた。
「こんにちは」
僕も入りながら頭を下げる。
ただ、マスターに僕の声は届いていなさそうだった。
彼は時が止まったかのように立ち尽くしていた。
その見開かれた瞳には、アンディしか写っていなかった。
「今日は捜査で来ました。お話を伺ってもよろしいですか」
アンディは感情をしまいこんでしまったかのように、淡々と警察手帳を見せた。
見ず知らずの通行人に聞き込みをするような、そんな口調だ。
マスターの態度からして、知り合いなのは間違いないはずだ。
僕は二人を交互に見守った。
マスターは、アンディの調子に合わせる気はないようだった。
ゆっくりと俯いて大きくため息をつく。
「ずっと心配していたんだぞ。悪い噂ばかり聞いていたもんだから」
「何もしていませんよ」
アンディは反抗するように言った。
マスターは顔を上げ、揺るがない瞳でアンディを捉えた。
「たった四年ほどの師弟関係だったが、私は君が好きだった。冷静さと情熱を併せ持つ若き青年。君にとって私は、ただの老いぼれ、小煩い相棒だったか?」
マスターは年齢に相応しい、落ち着いた声音だった。その分どこか胸が疼き、聞く人の感情を揺さぶる。彼も優秀な刑事だったという事が明白だ。アンディを育てた人でもあるのだ。
「俺とのペアを突然勝手に解散させたのはあなたでしょう」
彼に動揺を気取られまいと、アンディはあえて抗っているような気がした。
「私があの後、何をしていたか知っているか」
「何かこそこそと調べていた事くらいしか知りませんよ。そして上層部の耳に入り、退職を勧告された」
「理由を知れば、アンディがどうしたって私と行動を共にすると分かりきっていた。そうすれば、二度と刑事の道はない。あそこで私たちが共倒れする必要はない。私はどのみち定年も近かったからな」
アンディは何も言い返さず、思案するように足元を見た。
彼にも初耳の内容のようだ。
きっとその解散させられた日から、ちゃんと話すのは今日が初めてなのだろう。
マスターは更に続ける。
「私が辞職したという事は、敵は外ではなく内にもいるということだ」
アンディは機敏に顔を上げる。
「ジャックさんは、一体何を調べていたんですか」
そうか、マスターがジャックだったのか。
僕はあの警司が言ったことを思い出していた。
解散させられたから、アンディはやさぐれていたのだ。
マスターは静かに首を振る。
「言えば、追いたくなるだろう。アンディの行動は、目が付けられているかもしれない。今は言えない」
アンディは大きくため息をついて、近くの椅子に腰を下ろした。
「だが、君たち二人が刑事を続けるのなら、いつか真実を知るかもしれない」
「今回の捜査と関係があるんですか」
マスターは曖昧に首を傾げて、うっすらと微笑んだ。
「今の私には、何の助言もできない。すまないね」
申し訳なさそうな口調に反して、アンディの表情から曇りは取れていた。
マスターもそれを見て取ると、急に僕の方へ視線を向けた。
「ハン・フェイくんだったね。よかったらそちらへ座ってくれ。捜査にはもちろん協力するが、先に何か食べた方がいいだろう」
「はい、ありがとうございます」
僕は慌てて姿勢を正し、アンディの隣に腰を下ろした。空腹なのを見て取られるほど、僕の生気が無かったのかもしれない。情けないかぎりだ。
日中のバーはどこか別世界で、入口の窓からぼんやり光が入る。
吊られたグラスや奥に並べられたカクテルの瓶は、時が止まってしまったかのように眠っている。
それと対照的に、鍋のコトコトと煮込む音、微かに昇る湯気。
一口コンロの前で、マスターは鍋をかき混ぜていた。
この匂いは、きっとそうだ。
「どうしてシチューだと分かったんですか」
僕は小声でアンディに訊ねる。
彼は愉快そうにふっと微笑んだ。
「あの人は刑事の頃から、こういうのが好きなんだよ。ビーフシチューはジャックさんの十八番だ。よく仕事帰り、家に連れて行かれて食べさせられた」
「そうだったんですか」
「若い頃に離婚していて、ずっと一人だったようだからな。振る舞う相手が欲しかったんだろう」
「捜査に没頭しすぎて痩せ細っていたのはどこのどいつだ」
マスターは鍋を睨みながら声を飛ばした。
今のアンディはすらっとしているが、痩せてはいない。肩幅もあるし、鍛えていそうな身体だ。
「ハンくん。食は人間の生きる糧だ。どんな時でも、ちゃんと食べなさい」
マスターはそう言いながら、僕の前にビーフシチューを置いてくれた。
角切りの牛肉がごろっと入っている。シチューの水面は湖のように美しく見えた。
僕は返事をしながら、アンディにもその考えがしっかりと受け継がれていることに気付いた。彼らの絆を見た気分だった。
「ジャックさん、いただきます」
アンディは手を合わせてすぐに食べ始めていた。
「いただきます」
僕も倣って口に運ぶ。
欧風の、玉ねぎの甘味が溶け込んだ優しい味。ありとあらゆる旨味が詰まっている。牛はほろほろとほぐれた。
頬が痛くなるくらいの美味しさだ。もちろん、空腹だったのもあるんだろうけど。
贅沢をしたことのない僕からすれば、人生で一番美味しい食べ物と言ってもいいくらいだ。
あっという間に掻き込んで食べた僕を、マスターは実に嬉しそうに眺めていた。
「さすがはアンディの部下だ」
いつの間にかアンディも食べ終えていた。
上品に紙ナプキンで口を拭いている。
「会ってたった二日です。仮に組まされただけなので部下というほどじゃありません」
マスターは何故かさらりと聞き流し、僕に向かって言った。
「また良ければ食べに来てください」
「ありがとうございます、ご馳走様でした」
お金を払おうと財布を取り出すと、アンディが制した。
「今日はジャックさんのご好意ということでいいですよね。俺への謝罪の意味も込めて」
彼は嫌味で言っているというよりは、からかうつもりの顔だった。
これほど楽しそうに笑うアンディを、僕は初めて見た。
マスターも慣れた調子で小刻みに頷く。
「分かった、分かった」
僕は皿洗いだけ手伝うと、マスターがコーヒーを入れてくれた。
カウンターの一番奥にマスターが、その隣にアンディ、僕が座る。
「ジャックさん、アイリスという女性を知っているそうですね」
アンディは真面目に捜査を始めるようだ。
マスターはちらと僕を見る。
「ああ、ハンくんから聞いたのか。一ヵ月に一度来るか来ないかくらいの、うちの常連さんだよ」
「今回の捜査内容の情報源が、その人の可能性が高いんです。彼女は一体何者なんですか?」
マスターの目に驚きの色が浮かんだ。だが、彼はその後静かに首を振った。
「私は今はもうただの老人だ。お客様に深入りはできない。職業、年齢、家族構成、住んでいる場所、彼女は肝心な事は何も言わないんだ。警察関係者かもしれないが、アイリスは本名ではない。探しても見つからないだろう」
「この似顔絵、合っていますか?」
アンディは懐から取り出して広げた。
「ああ、上手に描けているね。確かに彼女は、いつもこの格好だ。店を出るときは必ずサングラスを掛ける。夜でも」
「何かから隠れているということでしょうか」
「確かに彼女は、一人きりで、何かに挑んでいるような気がするね。ハンくんに賭けてみようと言っていたな」
「なんでこいつに」
アンディは不服そうにこぼした。
そして僕は思い出した。
彼女からヒントをもらっていたことに。
僕は財布にしまっていた紙切れを慌てて出した。
「エイミー・リーを探して欲しい?なんだそれは」
アンディはすかさず読んで顔をしかめた。
「僕はあの日このバーで彼女に会って、その後ホテルへ行ったんです」
「ホテル?」
アンディは声を荒げた。僕はすぐさま言葉を補う。
「誘われたんです、彼女に。お礼がしたいからと言われて。その前日に、あのビルで彼女は男たちから薬物を強要させられそうだったんです」
アンディは口を挟まず頬杖をつくだけにとどめた。
「僕はワインを飲みすぎていて、寝てしまったようです。気付けば朝で、彼女の姿はありませんでした。ただ、ポケットにこれが入っていたんです。仕事終わりに着替えた時には無かったはずなので、彼女からのものだと思います」
「エイミー・リー…。身内か?」
「全く分かりません」
「署でランさんに調べてもらうか」
アンディは携帯電話でその紙切れを撮った。
「だが、まずは本人を探すのが先決だ。あの麻薬所持で捕まった二人は、まだ口は割っていないが、恐らく和字系のグループだ。その場にいたアイリスも何かしらの関わりがあるはずだ」
「その時の彼女は、金色の長髪と、赤いパーティドレスを着ていました」
「本当に同一人物だったのか?」
一緒だと思えたのは、声だけだった。あの時の僕はしかもかなり酔っている。
返す言葉に詰まった僕に、マスターは助け舟を出した。
「間違いない。ハンくんはバーで本人に確認していた。彼女は否定しなかった」
「そうですか。それなら、その線で調べた方がいいですね」
アンディはそう言って立ち上がった。
「ジャックさん、もし彼女が来たらすぐに知らせてください。こいつを店の前に張らせておきますが、いいですよね」
「ああ、分かった」
「アンディさんはどこへ?」
僕は咄嗟に立ち上がりながら訊ねる。
「署に戻る。お前は今日はここで彼女が来ないか見張っていろ。バーが閉まったら帰っていい」
アンディはそう言いながら背を向けて店を出た。
久しぶりに会った上司にちゃんとした挨拶もせず。
僕はそっと振り返ってマスターを見た。
「いつものことだ。君も苦労するかもしれないが、どうかアンディを助けてやってくれ」
マスターは僕に向かって丁寧に頭を下げた。