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BLUE CHAIN  作者: 中安叶子
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5

 そして翌日、もちろん寝坊した。待ち合わせの十分前に起きた。

 慌てて顔を洗って、スーツを着る。

 身だしなみを確認する間もなく、僕はばたばたと家を出た。

 三分前に待ち合わせ場所に着いたが、既にアンディの乗った車は停まっていた。

 僕を試していたのだろうかとぎょっとする。

「おはようございます」

 苦い顔で助手席に乗り込むと、アンディは挨拶がわりに片手を上げた。

 彼はふいに僕を一瞥してから、もう一度大げさに振り返った。

「酷い寝癖だな。その姿で街を歩いたらお前のせいで刑事が馬鹿にされる」

「それほどですか」

 僕は座る位置をずらしてサイドミラーを見る。

 右側だけが驚くほど膨れ上がっていた。

 これは確かに酷い。

「五分やるから直してこい。あと、何でもいいから何か食べてこい」

「分かりました、ありがとうございます」

 僕は急いで車を降り、駆けて家に戻った。

 どうして食べていないことまで分かったんだろう。

 さすができる刑事だ。

 僕を貶したいだけなのかもしれないけど。

 息切れしながら上着を脱いで洗面所で水を被り、タオルで乾かす。

 冷蔵庫を開ければ空に近かったが、先月母が送ってくれた白菜の漬物があったので、手で摘んで五口ほど食べた。

 塩っぱさが口いっぱいに広がったが、これほど美味しいと感じたのは初めてだった。

 母から届くものの中に、僕の好みの食べ物はない。それでも、ありがたさが勝つのだ。

 こんな日の空腹の僕を救っている。

 僕は漬物のタッパーの蓋を閉め、アンディの元へ戻った。


 アンディは僕がドアを締めるなり発車させた。

 慌ててシートベルトを締める。

 自分で五分と言っておきながら、待っていられなかったのだろう。

「ご迷惑をおかけしました」

 僕は小さく頭を下げる。

「自己管理くらい大人の基本だぞ」

「はい、反省しています」

 僕は助手席で縮こまった。

 アンディは僕の乾ききっていない髪をちらと見た。

「まあ、一人暮らしし始めなんて、よっぽど自立した奴しか話にならないだろうよ」

「僕、言っていましたっけ」

「見りゃあ分かる」

 アンディはかぶせるように言った。

「シャツのアイロンはかかっていないし、同じスーツは所々汚れたままだ。それでもって、今日の件だろう」

 彼の観察力に感心しながらも、僕の欠点を一つずつ述べられているようで居心地が悪かった。確かに今の僕に、そこまで気にしていられる余裕はない。

 僕はアンディの身なりをまじまじと見た。

 今日は深緑の艶のあるダブルのスーツだ。シャツは白だが、細めの茶色のネクタイを合わせている。

「アンディさんはいつ見てもちゃんとしていますね。服も高そうだし」

 アンディが一瞬僕を睨んだ気がした。

 彼は大きくため息をつく。

「俺は親が実家を出るのを許さない。父がそこそこ名のある弁護士でね。身の回りの世話はメイドがしている。だから俺と比べるのは間違っている」

「・・・僕なら羨ましいですけど」

 アンディが渋面を作っていたために、僕は思わず言ってしまった。

「一番上の兄は父のあとを継いで弁護士、次の兄は医者、姉はピアニスト。あの家に俺の居場所はない」

「凄いですね。でも、警察だって出世すれば誇れる職業だと思いますよ」

「・・・出世ね」

 皮肉っぽくこぼした彼を、僕は探るように見た。

 アンディとペアを組んだ日、彼がエリックに言われていたことを思い出した。

 優秀な彼にも、思い通りにいかない何かがあるのだろう。

 もちろん、こんな出会って二日目の新人に話してもらえるものではないだろうから、気にはなるけど聞かない。

 昨日と同じパーキング。

 アンディはシートベルトを外しながら手短に言った。

「今日はお前の絵を手がかりに聞き込みをする。人身売買の真相なんて、本人に会って聞くのが一番早い」

「分かりました」

 旺角の大通りの交差点で、僕らは対角に別れてから、行き交う人々を見続けた。

 アンディが昨日の似顔絵をコピーしてくれていた。

 黒髪で黒いコートを着ている女性を見つければ、すかさず声を掛ける。

 あの人はいない。

 きっと、彼女なら探されることも予想するはずで、見つかりそうな場所にのこのこ出向いてくるとは考えにくい。

 それでも、現れてくれるなら、他の刑事ではなく、僕の前だと思う。

 目が勝手に期待をして、幻覚さえ見そうだった。

 僕の視界の片隅で、アンディが頻繁に話しかけている。

 刑事である自分を罵りながらも、これだけ任務に忠実に取り組める彼は本当に立派だ。

 彼に恥じない自分でいられるよう、僕も目の前の通行者に集中した。

「警察です。このアイリスという女性を探しています。あなたですか」

 そう聞いて、相手の表情を見逃さないようにしろ、とアンディは教えてくれた。

 目や眉の動き、頬や口角。それらは言葉よりも真実を語る。

 僕にも分かる、とアンディは言ってくれた。

「私じゃないわ」

 そう冷たくあしらわれてこれで三十人目。

 お腹が空いたが、時計は見ないようにしていた。

 げんなりするに決まっている。

「何か手がかりはあったか」

 いつの間にかすぐ傍にアンディが立っていた。

 僕は驚きながらも、「いえ」と首を小刻みに振る。

「そうだろうな」

 アンディは静かに言った。

「藍天へ行く。そろそろ仕込みの時間だろう」

 腕時計を見れば三時を回っていた。

 一日考えて、彼は行くことを選んだようだ。

「お前は今日はここまででもいいぞ。どうする?」

 予想外だった。

 彼は最後まで僕を引きずり回すと思っていた。

 僕には見せたくない、知って欲しくない、何かがあるのだと察する。

 それでも、彼を理解する上では大切なことだろうし、僕はマスターがアイリスのことをどう話すのかも気になる。ここで帰る理由はなかった。

「行かせてください」

 アンディは僕の視線を三秒だけ受け止めると、何の感情も見せず歩き出した。

「ビーフシチューでも作ってもらおう」

 彼はそう言って怪しい笑みを浮かべた。



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