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店を閉めているところを残し、僕たちは一通りの聞き込みを終えた。
陽は落ちかけ、ビルの隙間から燃えるような空が覗く。
久しぶりに見た綺麗な夕焼けだったけど、今の僕にそれに構う余裕はない。
空気がひんやりとしてくる。
「次はどうしますか。聞き込みの範囲を広げますか?」
足の疲労は限界を迎えていたが、音を上げる訳にはいかない。言ったところで恐ろしい目で睨まれるだけだ。
アンディは僕の方は見ずに、思案しているようだった。
「一軒気になる店がある。戻るぞ」
彼はそれだけ言うと踵を返し歩き出した。
どこまで?
とは聞けず、アンディを追う。
彼が立ち止まったのは、午前中に訪ねた定食屋の前だった。
間口の狭い、こぢんまりとしたお店だ。
アンディは入口の扉の貼り紙を目で示した。
営業時間の案内が書かれている。
「この字、あの手紙の筆跡に似ていると思わないか」
「たしかに。でも、さっき訊ねた時は何も言っていませんでしたよね」
「店主には知らないと言われたからな。何事も決めつけは良くない。正しい答えが見えなくなる。ただ、俺はここだと思う。まあ見とけ」
アンディはそう言いながら扉を開けた。
直に夕食の時間だったが、まだ客はおらずがらんとしていた。
奥の調理場から出てきたのは、朝にも会ったおばさんだった。
僕たちが誰だか分かると、ぱたっと足を止める。
その表情を見れば、僕にもアンディの推察が当たっていると確信できた。
彼女は明らかに動揺していた。
五十歳を過ぎたあたりのふくよかな女性だ。
色の褪せた黒いエプロンを着ている。
「もう一度聞いてもいいですか。あの手紙に見覚えはありませんか」
アンディは怖いくらいに冷静だった。
真っ直ぐに見つめるアンディの視線を、女性は受け止められなさそうに俯く。
彼女は一度目を閉じ、大きく息を吐く。
「どうぞそちらに座ってください」
僕たちを席に座らせ、彼女もその向かいに腰を下ろした。
「手紙の内容については私は何も知りませんよ。ただ、書いて投函して欲しいと、常連の人に電話で頼まれたんです」
「常連?何と言う名の人物ですか」
「リーと名乗る女の人です。週に一、二度、うちのカイラン炒めを持ち帰るんですよ。いつもあらかじめ電話で頼んで取りに来ます。今回は名乗りませんでしたが、私の耳に間違いはないです。彼女が何か事件に巻き込まれているのかと思って、疑いもしませんでした」
「なるほど。電話はいつありましたか?」
「一昨日の朝です。言われてすぐに投函しました」
「近々大規模な人身売買が行われる、それ以外に場所や組織名など、何か気になることを話してはいませんでしたか」
女性は緊張した面持ちで首を横に振った。
アンディに問い詰める口調は全くないが、細やかさがある。聞かれる方は嫌だろう。
それからアンディは電話機の履歴や番号を確認したが、非通知だったようだ。
「彼女の外見の特徴を教えていただけますか」
再び席に着いて、アンディは続けた。
直接本人を探した方が早いと踏んだのだろう。
店主のおばさんは顔に手を当て必死で思い出そうとしている。
「綺麗な若い女の人だとは思うよ。ただ、いつもサングラスを掛けていてね。あまり顔の印象がなくって。でも、黒髪で黒いコートをいつも着ていたね」
僕の中でアイリスが過ぎった。
たった一夜、数時間の出来事ではあるが、彼女だったとしても、不自然だとは思えない。
あの日どちらが本当か、と聞いたときに、彼女はその二択を否定しなかった。
「防犯カメラはありますか」
「そんなものはないよ」
入口の扉が開いた。二人連れのおじさんだ。
店主はすぐに立ち上がって席へ案内する。
「ここまでだな」
アンディはぼそっと言った。
立ち上がりかける彼に、僕はすかさず頭を下げた。
「少しだけ、僕に時間をいただけませんか」
訝しげに見てくるアンディに、僕は負けまいと姿勢を正した。
「どういうことだ」
「地図を貸していただけませんか」
アンディは懐からたたまれた地図を取り出す。
僕はそれを広げ、裏返した。
折り目がそこかしこにあったが、僕は気にせずペンを取る。
僕の記憶にあるアイリス。上手く紙に宿せるかは分からないが、そうすべきだと思った。彼女が悪人にしろ善人にしろ、きっと何かの鍵を握っている。
たった一日共にいるだけだが、アンディは優秀だ。そして、少なくとも裏のある人ではない。僕一人では探し出せなくても、彼がいればたどり着けるだろう。
話せば叱られるだろうが、一時のことだ。
「・・・似顔絵?」
アンディはペン先を眺め続ける。
地図の裏面は、一つの大きなキャンバスとなった。
僕は描き終えるまでは手を止めなかった。まずは店主に確認する必要がある。
アンディに憶測で何かを言うべきではなかった。
顔だけ描くこともできたけど、サングラスをしているのであればあまり意味がないだろう。頭から足先まで。まるでファッションデザイナーのデッサンのようだ。
それでも、我ながら上手く描けた方だと思う。黒色ばかりの彼女は、ペン一つでも表現しやすい。
料理を運び終えた店主に、僕は咄嗟に駆け寄った。
「すみません。そのリーという人物は、こんな女性じゃなかったですか」
おばさんは絵をぱっと見てから、感心したように頷いた。
「ああ、そんな子だよ。よく分かったね」
アンディが横に並んで一礼した。
「ご協力ありがとうございました」
そして僕を見る目の恐ろしいこと。
僕は腕を勢いよく引っ張られ店を出た。
「それは誰なんだ。当てずっぽうで描いたのか?黒髪に黒のコートなんて、よくある格好だろう」
車に向かいながら、アンディは肩を怒らせていた。
「それはもちろん、そうだと思います。だけど僕は先週、たまたまこの女性に会ったんです」
「どこで」
「あの雑居ビルと、その翌日のバーで」
「あの雑居ビル?お前が薬物の現場を抑えた時か」
僕はこくりと頷いた。
「あの二人の男の意識を失わせたのは、その女性です。アイリスと呼ばれていました。悪い人には見えなくて、何か事情があるんだろうと思ったんです。だから言いませんでした」
「おいおい、処罰ものだぞ」
「それも分かった上です。アンディさんなら、見つけられますよね。僕は処罰されてもいいですから、彼女を探してください」
「簡単に言うな」
「次の日には旺角の『藍天』というバーで会ったんです。マスターは彼女のことを知っていそうな様子でした。手がかりが掴めると思います」
「藍天?」
アンディの歩調が遅くなり、終いには止まった。
僕も立ち止まり、振り返る。
彼にはその店名に心当たりがあるようだ。ただ、表情は若干引きつっていた。
「ご存知でしたか」
僕は何気なく言ったが、アンディはすぐに反応した。
「あそこは警察を辞めた人間が働いているはずだ」
「そうなんですか」
「・・・ということはその女は警察関係者か?それならどうしてこんな回りくどいことを」
アンディは微かな声で呟いた。
僕は様子を見守っていたが、そっと言った。
「今から行ってみますか?」
「いや」
アンディは大きくため息をついた。
「一日考えさせてくれ」
彼らしくない。
あんなにせかせかと聞き込みをしていたのに。
警察関係者には、僕の知りえない何か複雑なものがあるのだろうか。
僕たちは車に乗り込むと、アンディは勢いよくアクセルを踏み込んだ。
朝よりも荒い。
「家はどこだ?」
「旺角署の近くです」
どこかで捨てられるかと思ったけど、家の近くまで送ってくれた。
「明日七時にまたここに来い」
「分かりました」
いつもの出勤時間より早い。
僕はぎょっとしたが、彼がまだ捜査を続けるつもりなのだと察せられた。
僕の処罰はそれが終わってからか?
帰宅しシャワーを浴びたあと、カップラーメンを食べようとお湯を沸かしていた最中に、既にソファで眠りに落ちていた。