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報告書を提出し終えた僕は、旺角の警署を出て、珍しく飲み屋街へ向かった。
僕は酒をあまり飲んだことがない。酒というものに興味がないのだ。
警官になれると決まった夜に、同じように受かった警察学校の仲間たちと祝杯をあげたのが最後だ。我を忘れて皆で飲んで騒ぎ、僕はほとんど記憶がない。故に飲む意味がないのだ。飲んでもどうせ忘れてしまうなら、無駄にお金を使うだけだ。
いつもなら、署の北にあるアパートに真っ直ぐに帰る。
実家を離れて一人暮らしをしているため、ご飯はコンビニで済ます。味気のない人生だ。
日が落ちかけ始めていた。仕事帰りや遊びに来た人々で賑わい、街は活気に溢れていた。
僕はもう少し田舎育ちだ。
お洒落なカフェやレストランというよりは、テントの下で飲み食いするような露店が性分に合う。
多分今日は、忘れるために来たのだ。
忘れられるよう、悪目立ちしないよう、客がいなさそうな小さなバーにしよう。
細い通りの角にある、古びた木の扉。真ん中に小さくあるステンドグラスのような窓からは、中のぼんやりした明かりが見て取れた。
上から下げられた小さい木の看板に、『藍天』と掠れた黒字で書いてある。
僕はもちろん来たことがない。静かそうだし、それほど高級でもなさそうなのが、選んだ理由だ。
ゆっくりと扉を開けると、鈴のような軽やかな音が鳴った。
カウンターが奥に長く続く。グラスが溢れる中、マスターが一人。一番奥には女性が座っていた。木の床にカウンター、木の丸椅子。どこもかしこも年季が入っていたが、温かく懐かしい匂いがした。
「いらっしゃい」
マスターは白髪に白い口ひげをはやしていた。瞳は皺で隠されていたが、背は高く背筋もすらっとしており、それほど老人には見えない。黒い蝶ネクタイが可愛らしい。
「ここは初めてですかな?まあ座ってください」
「はい」
僕は手前の椅子に腰掛ける。
「何を飲まれますか」
「赤ワインをください。安いのでいいです」
「畏まりました」
僕は出された勢いのまま、一気に飲み干した。
酔うならワインが早い。渋みが体と合わないのがいいのだろう。
うっすら驚いているマスターや女性は気にせず、僕は四杯おかわりをした。早くも頭がふらふらする。
「マスター、この人知り合い?」
奥の女性が怪訝そうに訊ねる。
その声を聞いて、僕は固まってしまった。聞いたことがある。
「いや、私は知らないな」
その女性は全身黒づくめだった。
黒光りするロングコート、顎ほどまでの艶やかな黒髪、黒い瞳。化粧っ気がないが、綺麗な人だった。
僕はこの人を知っている。
重たい頭を頬杖をついて支え、僕はまじまじと彼女を見た。
「昨夜会いましたよね、あの雑居ビルで」
女性は一瞬驚いていた。
それもそうだろう。僕は昨日何一つできなかったぼんくらなのだから。
「どこのビル?」
「金髪で赤いドレスを着ていた方ですよね。覚えていませんか、僕のこと」
女性は驚きもせず、あの別れの時と同じように楽しそうに微笑んだ。
まだ少女のような、踊る瞳だ。
黒髪がさらさらと揺れる。
「なかなか有望な警官なのね」
彼女は飲み物を手に取りながら、席を二つほど詰めた。
「私はアイリス。あなたは?」
そういえば、そんな名前で呼ばれていた気がする。
「ハン・フェイです」
「歳はいくつ?ちなみに私は言わないけど」
「二十歳です」
彼女は手に持ったカクテルを一口含んだ。春の青空を思わせる優しい水色のカクテルだった。
「…ということは新人ね」
「あなたは何者ですか、犯罪組織の一味ですか。あの場から逃げたっていうことはそういうことですよね。あの蹴りは一体なんですか」
「ハンくん、私が犯罪者に見える?」
覗き込まれれば呼吸を忘れる。
二人の間には椅子がまだ二つ空いていたが、それでも殺傷能力は絶大だった。
僕は無意識に首を横に振っていた。
「この世には、人が想像もできないような答えがあるのよ」
「どうして姿を変えているんですか」
「なんだか取り調べみたいね」
アイリスは愉快そうに笑った。
「その方が掴まれにくい。便利だからよ」
「どちらが本当のあなたなんですか」
彼女は一度視線を落とした。彼女の何かに触れた気がした。
もしかすると、聞いてはいけない質問だったのかもしれない。
「どちらも私じゃない。私は今、夢の中にいるのと同じなの。夢の中で、目的を果たそうと動き回っているだけ。そして私は、二度と目覚めることは許されない」
僕はちらとマスターの顔を見た。彼には不思議そうな様子がない。彼女がお決まりで話す内容なのか、はたまたマスターはその真意を知っているのか。
「僕で遊んでいますね」
恨めしい口調でこぼしたが、アイリスは嬉しそうだった。
「そういう君は?なんで警官になったの?」
また聞かれた。
ぼんやりと受け取った僕は、一度飲み込んで彼女を見返した。
「僕が意気揚々と警官になったと思います?」
アイリスは首を傾げる。
「父が警官だからですよ。ただの交通課ですけどね」
「他にやりたいことがあったの?」
「いえ、何も。だからこそ、一番波風の立たない道を選んだんです」
「・・・波風の立たない」
彼女は口の中でその言葉を繰り返した。
「無理だよ、君は飛び込んだんだから」
アイリスは足を僕の方へ向けて、真っ直ぐな瞳で捉えてきた。
黒いショートパンツだったため、コートの合わせからすらりとした肌が伸びる。
「昨日の晩、大人しく応援を待っていれば、波風は立たなかったよ。だけど、君は自分の意思で飛び込んだじゃない」
「・・・言わないでください」
僕ははっきりしない頭を掻きむしった。
彼女の言うことは何となく分かる。僕は好奇心に負けて、開けてはいけない箱を開けてしまったのだ。
せっかく忘れようと思って来たのに。
今夜はきっと眠れない。
アイリスは立ち上がって、ぽんと僕の肩を叩いた。
「でも、そのおかげで助かったのよ。君の勇気に感謝している。だからお願い、もう一件付き合ってくれる?」
「え?」
理解力が落ちた頭で、僕は一生懸命彼女の意図を考えた。
「マスター、この子の分も合わせてお勘定お願いします」
「分かりました」
レジスターはカウンターの一番奥にあった。
マスターと彼女は向かい合って小声で言葉を交わしていた。
「大丈夫なのですか。何を企んでおられる」
アイリスはふふっと笑う。
「生きていれば、神様も味方してくれることがあるんですね。彼に賭けてみようと思います」
何を?
声に出したつもりだったが、口がぱくぱく動いただけのようだ。
「さあ行きましょう。マスター、ご馳走様でした」
彼女は軽く僕の腕を掴んで立たせた。
脱力している男を持ち上げるなんて、普通の女性にはできない。
僕は途端にしゃきっとして、自らの足で立った。只者ではない。知ってはいたが。
僕はこの後、秘密保持のために殺されるんだろうか。
「一体どこへ行くんですか」
アイリスの足取りに迷いはなかった。
彼女は店を出る前にサングラスを掛けていた。余計に怪しい。薄い唇が左右に引かれる。
「ホテルよ」
薬で安楽死?もしくは男女の?どちらにしても僕の頭をかき乱すには十分だった。
「どうして夜なのにサングラスを?」
僕は着くまでに彼女の正体を暴こうと躍起になるが、アイリスにはどこ吹く風のようだ。
しばらく沈黙が流れていたが、彼女はぼそりと言った。
「これが私の景色なの。空の綺麗な色を忘れそうになった時には、ああやってマスターにカクテルを作ってもらうの」
「・・・顔を見られてはいけないんですか?」
アイリスは首をひねる。
「まあ、そんなところね」
ホテルはすぐ近くだった。
歩いて五分ほど。
観光客向けそうな、スタイリッシュな建物だ。
彼女は慣れた様子で受付を済まし、右手にキーを、左手は僕が逃げないように腕を組んでエレベーターに乗った。
「よく来るんですか」
「まあね、仕事柄。自分で予約することは滅多にないんだけど」
ふわりと良い香りがした。香水ほどではない、柔らかな香り。髪からだろうか。
彼女は今日はハイヒールではなく、フラットなパンプスだった。靴さえも黒だったが。
僕の身長よりほんの少しだけ低いはずなのだが、とてもそうは感じなかった。
いくらコートや眼鏡で隠しても、その存在感は溢れ出ていた。
まるで芸能人みたいに。
「もう一杯くらい飲みましょうか」
アイリスは部屋に入るなり、サングラスを外しながらそう言った。
僕の返事を聞くこともなく、電話でワインを二杯頼む。
彼女がコートをおもむろに脱ぐと、ノースリーブの黒のニットが顕になった。
手足がとても長い。触れてみたくなるほどに美しかった。
僕の思考能力が酒のせいで狂っていたとしても、そうでなかったとしても。
「どうしてここへ?」
かちんとグラスを合わせてから、僕は冷静を装って訊ねた。
ベッドの脇に置かれた小さいテーブルを挟んで、僕らは座った。
「お礼をしようと思っただけよ。男の人が喜ぶことなんて、ほとんど決まっているじゃない」
本気なんだろうか。こんな子供を卒業したばかりのような僕を相手にするだろうか。
「あ、一応聞いておくわ。彼女とか、まさか結婚してはいないわよね」
「どうして否定形から入るんですか」
「見れば分かるもの」
責めることはできない。当たっているから。
僕は波風を立たせないよう、自分にも蓋をして生きているのだろう。
「恋しい気持ちを持ったことは?」
アイリスは僕の目を強く見つめて、逸らさせてくれない。
僕にだってある。恋をしたことくらいは。
「警察学校は厳しいんです。恋に走れるほどの余裕なんてなかったですよ」
彼女の瞳はどこか切なげに見えた。
僕がワインを飲み干すと、彼女も同じようにグラスを空にした。
アイリスはグラスを置きながら立ち上がると、手を添えて僕を立たせてベッドに寝かせた。
彼女は僕に覆いかぶさり、僕の顔のすぐ脇に手をつく。
接した足が熱い。
あと僅かに動けば、本当に触れてしまう。
透き通るような肌、黒い大きな瞳。きらりと光を宿して、宝石のように輝いた。
もう僕には何もできない。
アイリスはにこりと微笑んで、僕にそっと口づけをした。
その後のことは何も覚えていない。
気が付けば僕は一人で寝ていて、外からは陽光が差し込んでいた。
シャツやズボンをきちんと着ていることから、僕はあのまま寝てしまったのだろうと考察できる。
彼女は一体いつ帰ったのだろう。
部屋の隅々を確認する。
頭が重たい。
明らかに飲み過ぎだった。
この二日間は一体何だったんだろう。
僕はため息と共に起き出し、ホテルを後にした。
あのワインには実は睡眠薬が入れられており、僕が寝ている隙に携帯電話の履歴を確認されていたことは、僕の知るところではない。
家に向かう途中、僕はズボンのポケットに違和感を覚えて手を入れた。
たたまれた紙切れが入っていた。
まったく見覚えのないものだ。
『エイミー・リーを探して欲しい』
小さくそう書かれていた。