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通報の電話が鳴り響いたのは、ちょうど日付が変わった頃だった。
巡回中だった僕たちは、たまたま現場から一番近くにいたがために、向かわさせられることになった。
『これから麻薬の取引が行われる』
一体誰が何の根拠を持って言っているんだろう。まだ署に務めて三ヵ月の僕に、一体何ができるっていうんだ。
「行くぞ、くれぐれも突っ走るなよ。誤報がほとんどだが、時には本物もある」
僕とペアを組まされているフー・チェン。五十歳手前の落ち着いたおじさんだ。熱心とまではいかないが、必要な時には労を惜しまず指導してくれる。しつこくないその性格は、僕には合っている。彼は背はそれほど高くないが、身体は鍛えられていて、並ぶと僕が子供のように見えた。
ここは夜でも明るい。ネオンの看板が左右からせり出し、空を見上げれば巨大なビルが宇宙船のような光を放つ。
ここが返還されて十年が経とうとしている。
街は日を重ねるごとに活気づき、眩さをさらに増している。
ただ、僕らが向かっているのは、一本入った路地裏、古い雑居ビルのようだった。
辺りのシャッターは閉められ人気がない。
二階へ続く真っ暗な階段を上がっていく。
廊下はぼんやりとした蛍光灯の明かりが灯っていた。そして、建物は思いの外大きい。奥に長く続いている。
錆びかけた鉄の扉がいくつも並んでいた。
先は暗くてはっきりしないが十部屋以上はあるだろう。
「俺は奥から上へ上がろう。ハンはこのまま上がって最上階から見て回ってくれ」
「一緒に行動しないんですか」
僕は小声で猛反発した。
「応援が来るまでにはまだ時間がかかる。本物だった時には、逃せば俺たちの責任になる」
「そんな…。でも、逃げたかどうか、本部だって知る術はないですよね」
「さすがに監視カメラに映るだろう。いいか、耳をよく澄ませ。相手より早く気付けばこちらの勝ちだ。怪しい声を聞いたらすぐに無線で知らせるんだ。合流して駆け込もう」
「分かりました」
フーは僕の左腕を軽く二度叩くと、颯爽と背を向けて進んでいった。
彼の指示は的確だ。これ以上僕は何も言えない。納得はしているのに、鼓動はこれでもかと大きく鳴っていた。震える手で拳銃を握る。
大きく一つ息を吐いてから、僕は忍び足で階段を上っていった。
外から軽く見上げた通り、結構な階数だった。
もう八階のはずだ。足音よりも、自分の呼吸音の方が響いている気がしてくる。
警察学校で多少体を動かしてきたが、僕の得意分野ではなかった。
“どうして警官を志したんですか?”
周りの同僚や面接官、学校の先生にも何度となく聞かれてきた。
理由がなければ選んだらいけないのだろうか。
一番言いやすかったのは、僕の父が警官だったから。父はずっと交通課に勤めている。子供の頃から父を見てきたけど、安定していそうだったし、不満やストレスもなさそうだった。
行く末が想像しやすかったから。それが、この仕事を選んだ理由だった。
こんな犯罪が行われているかもしれない危険な現場に乗り込んでいくような未来がくるなんて、露とも考えていなかった。
僕の思考が甘かったことについては、今は誰も責めないで欲しい。
階段はあと二階上がったところで途切れた。
最後の一段に足を掛ける手前から、既にうっすら声が聞こえていた。男の声だ。そっと廊下を覗けば、真ん中辺りの一室の扉が二十センチほど開けられ、明かりが漏れていた。
荒れた呼吸をできるだけ殺して、耳を澄ます。階段からでは内容までは聞こえない。
フーに知らせる前に、通報のあった薬物の取引なのかどうか見極めるべきだろう。
どれだけ乗り気ではない仕事であっても、それくらいは分かる。
壁伝いに一歩ずつ近づいていく。一番起きてはならないのは、彼らと鉢合わせること。こちらが拳銃を持っていたとしても、僕が上手く使えるとは思えない。向こうに先手で撃たれて死亡だ。
それを阻止するためには、僅かの足音、物音をも感知しなければならない。
野生の動物に戻った気分だった。
開いた扉から、五歩ほど。声が聞き取れる距離まで来た。
「それにしても、良い売れ行きですね」
「こいつらはみんな、これほしさに稼いではせがんでくるぜ」
「結局、払ったものが手元に返ってくるという訳ですか」
男が大きく笑った。
二人がやり取りしているようだ。“こいつら”ということは、他にも誰かいるのかもしれない。
「フーさん、怪しい現場を見つけました。最上階です」
僕は小さな早口で無線に訴える。
声はすぐに返って来た。
「よし、俺もすぐに向かう。くれぐれも一人で動くなよ」
「もちろんです」
僕の仕事は、フーが来るまでここを押さえておくこと。このまま息を潜めて、彼らの様子を窺っていればいい。そう思っていた。
「アイリスだけだぜ、一度も手を出さないのは。今日はそのために呼んだんだ」
「小さい頃、喘息を持っていたって言ったでしょう。悪化しそうなのよ」
女性の声だった。しかもまだ若そうだ。
「仕事前に一発吸ってからいけば、気分爽快だぜ。その後だって何百倍の気持ち良さだ」
「ほらほら」
「ちょっと待って」
「この後俺とやろうぜ」
「離して」
元々薬物の通報だと知らなくても、それ以外に考えられなかった。
そして、女性の切羽詰った声。
考えるよりも前に、体が動いていた。
僕はその明かりの灯った部屋へ飛び込んでいた。勢いよく扉がぶつかる音が鈍く響く。
「動くな、警察だ」
飾りだけの拳銃を向ける。
中の人物は三人。誰もが一瞬目を見張った。古びた革のソファに向かい合わせで座っていた男が二人。その奥、二人の間に立っていた女性が一人。窓はカーテンで覆われており、ここも蛍光灯が薄暗く灯っているだけだった。
それでも、そんな僅かな明かりを受けて、女性の綺麗な金色の長髪が輝いていた。
驚ききった青い瞳。アジア人ではあると思うが、色白で鼻も高く、美人そのものだった。豊満なラインを浮かばせる絹の赤いドレス。すらりと伸びた手は、不安そうに胸の前で組まれていた。
この世の生物ではないほどに美しかった。
僕を我に返らせたのは、男二人が立ち上がってそれぞれ拳銃を向け返した時だった。
どちらも三十代にかかったくらいだろう。シャツに柄入りの羽織物、ジーパン。熊みたいな巨体な男と、狐みたいな目をした男。慣れた手つきで銃を持つ様から、ほぼ間違いなく犯罪組織の関係者だと見て取れる。
対のソファの間に置かれた机には、大きめの革の鞄があった。
僕は選択を誤った。
何があろうとも、一人で乗り込んではならなかった。フーはあれだけ言っていたのに。
ただ、一時でもこの女性を救えたのであれば、僕の行動の意味はあったのかもしれない。
「一人か?」
熊男ががさついた声で訊ねる。
僕はもちろん、こういう時に何と応えればいいのか分からない。どうすれば彼らを挑発せずに済むのか。まあ、どちらにせよ殺されるんだろうけど。
「答えろ!」
怒鳴り声と共に彼は銃を発射した。
死んだと思った。
この部屋は狭い。彼らが撃とうと思って失敗する距離ではない。
体中の毛が逆立つのを感じた。
(…あれ、まだ生きている)
弾は僕から少しだけ逸れた右の壁に穴を開けていた。
止まっていた呼吸が蘇る。
「一人です、たまたま巡回で」
「相方がいるはずだろう、もう一人はどうした」
狐男が痛いところを突く。
「いません、喧嘩しました」
「そんな子供の言い訳みたいな嘘、信じるわけがないだろう」
彼らが一歩詰め寄ろうとした時だった。
ふわりと金髪が揺れた。
彼女は瞬きする間もなく、後ろから男二人の首元を回し蹴った。
巨体は机に、ソファに勢いよく倒れる。
彼らが反射的に立ち上がらない様子から、意識を失っているのだと分かった。
「え?」
僕は幻を見たのではないかと混乱する。
訳が分からずに、ただ倒れた男たちを唖然と見ていた。
「手錠があるでしょう」
気がつけば彼女は僕の隣まで来ていた。
背は僕より少し高めかと思ったら、恐ろしく高いヒールの靴を履いていた。金のラメがきらりと輝く。
間近で見ても、非の打ち所がない。その瞳に吸い込まれそうになる。
「貸して」
差し出された手に、僕は慌てて手錠を乗せた。
彼女は軽快な靴音を立てながら、見事にあっさりと男二人の片手同士を手錠でつなげた。
「あとは頼んだわよ」
彼女はカーテンと窓を開け、パンプスを脱いで手に持ってから、躊躇することもなく飛び降りた。
僕は仰天して窓に駆け寄る。
ここは十階のはずだ。
覗けば一メートルほど向かいに、同じようにビルが建っていた。階数は少し低く、屋上が見える。
赤いドレスの女性は、その屋上を数歩進んでからくるりと振り返った。
「助けてくれてありがとう」
楽しそうな瞳だった。先程の出来事など気にも留めていないような。
助けられたのは間違いなく僕だ。
揺れる長髪とドレスはすぐに影に隠れ、見えなくなった。
どたどたと足音が聞こえてくる。
飛び込んできたのはフーだった。
「これはいったい….」
僕が廊下にいないのに気付いて、無我夢中で走ってきてくれたのだろう。
大きく息が乱れていた。
僕は何を言ったらいいか分からずに、彼と同じく倒れた男たちを眺めた。
「すごい手柄だぞ、これは」
フーは鞄の中身を確認してから言った。
僕の手柄じゃない。あの人だ。
一体何者だったんだろう。
サイレンが近づいてくるのが聞こえた。
まるで僕も一緒に捕まってしまいそうな気分だった。
続々とやって来る警官によって、男たちは連行され、鞄は回収された。
「窓は始めから開いていたのか?」
「はい」
偉そうな刑事が僕に詰め寄る。
僕らとは服装が違う。ブラウンのスーツにトレンチコート。整えられた長めの髪。
それほど僕と歳は変わらないはずだが、風格が違った。僕とは世界が異なる人物だ。
「この男二人以外に仲間はいなかったか。逃げた奴は?」
彼が窓の外に視線をやったのに合わせて、僕も外を見た。大通りに停めてあるだろう警察車両のサイレンの明かりが、ここまで微かに届く。暗闇の屋上を見つめれば、目眩を起こしている錯覚に襲われた。
僕は静かに首を横に振る。
「僕がこの部屋に突入した時には、あの男たちしかいませんでした」
理由は分からないが、彼女のことを言えなかった。僕の手柄にしたいとか、全くそういうことではない。だけど、彼らと一緒にいたということは、何かしら犯罪組織につながりのある女性なのだろう。調べられてほしくなかった。彼女はきっと敵ではない。
ただ、罪を犯していないかと聞かれれば、自信を持って否定はできなかった。彼女が助けてくれたお返しに、自由にさせてあげたかった。
仮眠してから書いた報告書も、全て僕がやったことにした。あの蹴りも。無我夢中で戦ったら、できた。ということにした。
これで終わりだと思った。