97.勇気を出す少し前
(とうとうこの日がやって来てしまった……)
鏡に映るのはクマがくっきりとついている自分。緊張で夜、眠れなかったのだ。
「お嬢様、今日も王宮に行くのですよね」
「うん。用事があるの」
寝台から出た時から心臓は早なり、何度も深呼吸している。ソワソワとしているエレーナから何かを感じとったのか、リリアンまで落ち着きがない。
「あのねリリアン」
「はい」
「今日は一番可愛く、素敵に見えるようにして欲しい」
「言われなくてもとびっきり可愛くしますよ」
微笑んだリリアンは鏡台の前に座ったエレーナを置いて、衣装部屋に入っていった。
今日はヴォルデ侯爵との約束を達成する日だった。それが終わればエレーナは侯爵と婚約を結ぶ。
だから何度も何度も頭の中でシミュレーションした。伝える言葉も考えた。
ルドウィッグもエレーナの意思が固いのを知ったのか、最初は渋っていたのに狩猟大会の直前に侯爵が説得しに来た後、婚約を許可したのだ。
手のひらを返したルドウィッグに些か疑問が生まれたが、許してもらえたのだからそれでいい。
お母様も嬉しそうだった。しかし弟のエルドレッドは複雑な表情をしていたが。
「お嬢様! これはいかがでしょうか」
持ってきたのはオーガンジーの花柄ドレス。腰のところは大きなリボンが付いていて、そこから広がるスカート部分はなめらかに靡いている。
リリアンに手伝ってもらい、ドレスを着る。
鏡に映るエレーナの姿。変わったと言ったらやはり髪の長さだろう。
不揃いになった髪を整えてもらったら、腰まであった髪の毛は胸元くらいになってしまった。短くなってしまったのは悲しいが、少しだけ新鮮な気分だ。
薔薇のような真っ赤なリボンと一緒に編みおろしにしてもらい、リリアンが季節の花を髪に挿していく。
最後に顔に化粧を施し、数度瞬きすれば終わりだ。
「ありがとう。ねえ、リリアン。私……可愛く見えるかしら?」
「世界で一番可愛いです。その場にいるだけでどんな殿方でも落ちてしまいますよ」
「大袈裟よ」
苦笑しつつも、鏡の中にいる自分はいつもより可愛い。そう思えるのはリリアンのおかげだ。くるりとその場で一回回った。
見送りしてくれたデュークとリリアンに手を振りながら、馬車は王宮への道のりを進む。
「大丈夫。大丈夫。できる」
1人になるとどんどん緊張して来た。手汗も先程から止まらない。ハンカチを握りしめている。
婚約しますと言うだけでこんなに緊張する人がいるだろうか。普通嬉しさだけを感じるものだと思うけど。
王宮にはもうすぐ到着する。エレーナは既に帰りたくなってきた。自分から殿下に言うなんて想像しただけで死にそうなのだ。口から心臓が飛び出てしまいそう。発作を起こすのでは? と思うほど脈拍が早い。
(本の中にいた登場人物も、好きな人に伝える時はこんな感じだったのかしら?)
小さい頃によく読んでいた本を思い出してしまう。
「エレーナ、覚悟は決めたでしょう。どんな結果になっても……ってあの時、手を取ったのだから」
あんなあっさり承諾したヴォルデ侯爵も、結ぶための条件も、泡沫のようで。でも、現実であるし夢ではないのだ。
ブレーキを掛けて馬車が止まる。
「──お嬢様どうぞ」
御者が扉を開けて、手を差し出した。
緊張で震え、冷たい手。手袋を付けてその手を取った。
「公爵令嬢お久しぶりです。ご案内致しますね」
笑顔で迎えてくれたのはヴォルデ侯爵の部下である騎士──コンラッド卿だった。
「団長は既にリチャード殿下といらっしゃいます」
「そうですか」
いつもより人が少ない廻廊を歩く。雑音でも聞こえてくれば気も紛れるのに……と普段とは反対のことを思ってしまう。ありえないのに、周りの視線が全てエレーナに向いているように感じてしまった。
「どうぞ2人は中にいます。私はここまでですので」
コンコンっとクラウス卿が扉を叩けば、「どうぞ」と中から声がかかった。
「失礼します」
ゆっくり開ければ、ソファに座った2人がいる。
「おはようエレーナ嬢」
表情がなくなっているであろうエレーナとは対象に、にこやかにヴォルデ侯爵は笑っている。その鋼の精神を半分くらい分けて欲しいものだ。まあ、ヴォルデ侯爵が何かをする訳では無いから緊張しないのだろう。
「おはようございます。リチャード殿下、アーネスト様」
スカートの裾を持ってカーテシーをし、顔を上げればリチャード殿下と視線が合った。思わず顔を背けてしまう。
「話は何かな」
「そっそれについてですが!」
世間話もなしにストレートに尋ねたリチャードを、エレーナは遮った。
「その前にヴォルデ侯爵と話をさせてください。お願いします」
精一杯の時間稼ぎだった。昨日はまともに明日のことを打ち合わせできていなかったし、確認したいのだ。あわよくば条件を変えたい。多分無理だけど。
「…………時間はあるから構わないよ。僕が外に出よう。庭園にいるから終わったら来てくれ」
すんなりと了承し、リチャード殿下は廊下に出て行った。
「あ、アーネスト様、本当にやらないといけないのですか!?」
迫ったエレーナにヴォルデ侯爵は仰け反った。
「今更何を」
「ほ、ほかのに変更は……できることなら何でもしますから! それかまた後日では……」
(目の前にしただけで、緊張で死にそうだった。無理よやっぱり)
「これはきっとエレーナ嬢のためになる。あとね、私を助けるためにもやってくれ」
エレーナの両肩に手を置いて、首を横に振る。
「アーネスト様を助ける? のはなんのことだか分かりませんが、私のためになるとは思えません。伝えるのみならば手紙とかでも……ダメなのですか?」
対面というのがエレーナにとって辛い。文字を通してならばすんなり出来そうなのだが。
もしくは殿下以外の人に伝えるのであればこんな風にはならなかっただろう。
(ああ、過去の私何故その条件で承諾してしまったの? もっと交渉できたのではないかしら?)
舞踏会の日の自分を恨んでしまう。顔を顰めてしまうと、ヴォルデ侯爵の手が伸びて来て、怖い顔は似合わないからダメだよ。と窘められる。
「ここまで来たんだ。大丈夫。上手くいくから」
「────わかり……ました」
心のどこかで、ヴォルデ侯爵の言葉に安堵している自分がいて驚く。だってこんなに緊張して、告げるのが怖くて、逃げ腰になっているのに。
「リチャード殿下の所に行きます。何があってもそばにいてくれますよね? それに婚約します。とは一緒に言ってください」
不安げに揺れる瞳がアーネストに向けられる。
「もちろん。そのために私がいるんだ」
アーネストはポンッとエレーナの肩を優しく叩いた。