86.傍にいた人
エレーナは周りを安心させるように最初の夜を持ち堪え、次の日には解毒薬が効いたのか、高熱も普通の熱ほどに下がっていた。
その間、ミュリエルの許可を貰ったヴィオレッタがルドウィッグの代わりにエレーナの傍にずっと付き添っていた。
数時間ごとに侍医が見に来るので、その際にヴィオレッタがエレーナの様子を伝え、少しずつ解毒薬を飲ませること数日。
4日後には容態が安定してきたことによって公爵邸に移すことが決まり、一旦ヴィオレッタは準備のために王宮を離れた。
入れ替わるようにしてエレーナの傍にいたのはリチャードだった。
ルルクレッツェの王子とギャロット一族を捕まえたことでいつもよりも仕事量が増えたが、睡眠時間を削って執務は出きる限り夜のうちに終わらせた。そして昼間は時間の許す限りエレーナの寝ている部屋にいたのだった。
もちろん隣にはアーネストや侍女もいるし、長時間2人っきりになることはない。
「ほら、飲めよ。入れてくれたぞ」
寝台の隣に腰掛けながらずっとエレーナを見ていたリチャードに、アーネストは片手をポッケに入れながら湯気が出ているコップを渡した。
「ありがとう」
素直に受けとって少しだけ口に含む。スーッと爽やかさが鼻を通っていった。
「ミントティーか」
「そうだ。少しは頭がスッキリしたか?」
頷けば全部飲むよう急かされる。少し違和感を持ちつつも言われた通り飲み干した。
リチャードはアーネストにコップを渡した。
「じゃあ、これを片付けてくる。おまえ、少しは気を抜けよ。エレーナ嬢がその姿を見たら怒って心配するぞ」
言われて備え付けられている鏡を見れば、目の下にくっきりとクマができている。これはエレーナを王宮に連れ帰った日からほとんど寝ていないからだった。
「分かったよ」
言いつつも寝れるはずがなかった。
流石に執務に支障をきたすので、アーネストに言われる前に実は寝ようとした。しかし、寝台に身を委ねた途端、微かにあった眠気も飛んでいってしまうのだ。それゆえにリチャードは結局寝不足だった。
部屋を出ていくアーネストを見送り、再びエレーナを見る。
シーツの上に乗せられた左腕は、念の為に肩から手首のところまで包帯が巻かれ、頭部と足も同じような状態だ。
彼女の右手を触れれば温かい。けれど起きることはなく、全身には力が入っていない。柔らかい頬を触っても、頭を撫でても、瞳が開くことはない。
エレーナの体内に入った毒は少量にも関わらず、身体に大きな影響を出していた。徐々に解毒こそできているものの、目を覚ますかは分からないと言われた。
ギュッとリチャードはエレーナの右手を握った。
「お願いだから……はや……く。目を……」
呂律が回らず、今まで感じてなかった眠気がリチャードを襲う。強制的に瞼が降りてくる。
(これ、あいつが謀ったな)
こんな急に眠気が来るはずがない。何かを盛られたと考えるのが自然だろう。
そうなるとついさっき飲み干したミントティーが怪しい。即効性の睡眠薬をアーネストが入れたとしか考えられない。廊下で空のコップを見ながら笑っている彼の姿が容易に想像できる。
(覚えとけよ)
チッと舌打ちをしたところでリチャードの記憶は途切れ、そのままエレーナの寝ているシーツの上に突っ伏してしまったのだった。
◇◇◇
その後、エレーナが身動ぎしたことによって、リチャードの意識は再浮上した。
「──ああ、寝てしまっていたのか」
言いつつ、突っ伏した際に自分が考えたことを思い出し、辺りを見渡した。しかしアーネストは帰ってきていないようだ。
(探して懲らしめてやる)
見つけ出すために立ち上がろうとしたその瞬間。腕を誰かに掴まれた。弱いが寝台の方に引き寄せられ、バランスを崩しそうになった。
(いま、何が……)
ここにいるのはリチャードとエレーナだけ。エレーナは意識がないはずで、なのに、何かに掴まれている。
(嘘だ、まさか────)
慌ててシーツをめくった。
そこにはリチャードの手首を掴む、彼女の手があった。
驚きで息が止まりそうで、現実なのかと、リチャードの願望で作られた夢なのかと、まだアーネストに盛られた睡眠薬が効いているのかと、目が寝ているはずの彼女に向かう。
そこにあったのは、ぱっちりと開いた、交わるはずのない金の瞳。自分の姿が彼女の瞳に映っている。
「レー、ナ」
「はい」
弱々しいが彼女は自分に微笑んだ。
「起きたの?」
「ええ、ついさきほど」
「僕が見えてる?」
「はっきりと見えていますよ」
「夢の中かい?」
「私が死んだわけではないのなら、現実ですよ。リチャード殿下」
信じられなかった。目覚めてまだ間もないだろうに意識ははっきりとしているようだ。そっと震える手で彼女の頬に触れる。
「あったかい」
「それはそうです。わたし、生きてますから」
ふっと彼女の笑みが深くなる。
手が滑る。前髪と無惨にも切られてしまった髪に触れた。そのままエレーナを抱きしめる。傷には触れないようにしながら。
「侍医が……助かったとしても目を覚ます確率は高くないと。レーナが受けた矢じりにルルクレッツェ特有の毒が塗られてて……それが意識が戻らない原因って。でも容態は安定してきたから公爵邸に移動する話が────」
安堵と嬉しさと巻き込んでしまった罪悪感に自分の不甲斐なさ。
「僕がもっと早く着いていれば。早く見つけてあげられていたら。あちら側の事情なんて無視して、こんなまどろっこしい方法で潰さなければって君が目を覚まさない間何度も」
もっときちんと、エレーナの前では完璧な姿で言いたかったのに、リチャードの声は震えてしまった。