66.牙をむく者
辺境伯の娘と言っても国防を担う家だ。爵位が違くても家の力は同じくらいある。機嫌を損ねるようなことは慎まなければ。
主催者側の天幕ということで他のものと造りが違うのか、エレーナが通されたのは令嬢たちがいた場所からは見えない部屋のようなところだった。
「ほんとうに助かりました。これ頂き物なのですよ」
大切そうにリリアンネは抱え込む。
「……好きな方からとかですか」
「分かります? 実はそうなんですよ。私の一番大切な御方からです。でも──汚れてしまったわ」
ハンカチを広げ、目を細めた。唇が微かに開いてふっと吐息がもれる。それがとても艶かしい。同性であるエレーナでもドキッとしてしまう。
「まだ汚れが落ちてませんでした? 一応洗ったのですが……」
エレーナが確認した時は全て落ちていた。もしかしたら見逃してしまったのかもしれない。そうだとしたら申し訳なかった。
「ううん。そうじゃないのよ。まあいいわ」
ひらひらと振りながら埃を落としているのか、ハンカチを叩く。主催者側なので侍女が付いているのだろう。隣に控えていたお付の者に手渡し、「綺麗に洗っておいて。全部汚れはなくして」と言付けた。
「では私はこれで」
返せたのだから戻っていいだろう。エレーナはリリアンネの派閥と仲がいいとは言えない。父も文官であり、武官である辺境伯とは付き合いがほとんどないはずだ。
ここにいるのは敵の中に1人特攻しているようなもの。用事が終わったのなら撤退するのが得策。
天幕の奥にあるこの一角は、他のところから見えない位置にある。つまり死角だ。嫌な予感がするのだ。
「ダメよ。言ったでしょう? お礼をすると」
リリアンネの冷たい手がエレーナの腕を絡めとった。嫌な汗が背中を落ちていく。リリアンネと視線が合った。
彼女は──不気味なほど笑っていた。天使のような愛らしい笑みなのにゾッとする。
先程までは透き通っていた瞳。中に蠢く何かがいた。蛇が、見ている。目の中から飛び出してくるなんて、ありもしないのに。ぐるぐると巻きついてくる。息ができない。うまく酸素が吸い込めない。
「せっかく来てくれたのだからもう少しここに居てくださらない? 今から隣国のアロマを炊くの。是非楽しんでいってほしいわ」
「い……や。戻らなくては──」
掴まれた手を振りほどこうとする。しかし強い力で握られていて解けない。痛みを感じて顔を引き攣らせる。
何も言われてないが、エレーナは悟った。悟ってしまった。
頭が身の危険を感じて警報を出している。鳴り響く。再び無理やりにでも振りほどこうとするが、拘束が強くなるばかりだった。
立ち上がったリリアンネはゆったりとした足取りでエレーナの隣に立つ。そして耳元にそっと呟いた。
「──ねえ女狐」
玲瓏かつ淡々と言われた言葉に心臓が凍る。
「どこでそれを」
分からない。なぜ彼女が。面識はあまりない。話したことも数回ほどだ。彼女に恨まれる覚えは無いのだ。
クイッと顎を持ち上げられる。エレーナよりリリアンネの方が背が高かった。狩る者と狩られる者。エレーナは──捕食される方だ。
「貴女が一番わかっているのでなくって?」
お気に入りのおもちゃを見つけた子どものように笑みは絶やさず。締め付ける力は強くして。
エレーナは恐怖しか感じなかった。足が竦んで公爵令嬢としての立ち位置も忘れて、その場に座り込んでしまった。そんな彼女をリリアンネは無表情で見つめてたあとに、にっこりと笑った。
「わたくし、貴女のことが大っ嫌いなの」
◆◆◆
「さあ皆さん。楽しんでいただけると嬉しいわ」
そう言ったリリアンネはアロマポットに香油をたらし、それを数個用意する。そして卓ごとに侍女に置くよう指示した。
甘ったるい香りが天幕に充満し始める。
エレーナはリリアンネの隣に座らされていた。外に出ることはできないように両脇を彼女の侍女で固められている。
もはや逃げようという気持ちも削がれてしまった。さっきからひっきりなしに冷や汗が背中を流れていく。
それにリリアンネの思惑が分からない。女狐などと言ったわりには、エレーナと会話をしようとしてくるし、微笑んでくる。まあ目の奥は凍りついているのだが。
「あのリリアンネ様、私に送られてきた手紙は──」
「わたくしよ?」
誤魔化すかと思ったのに。はっきりと口にした。
「何故ですか」
「そりゃあ貴女が悪いのよ。大人しくしていればいいものの。でもわたくし、優しいから。警告で止めるのならそれで終わりだったのに」
紅茶にミルクを入れて、リリアンネはゆっくりかき混ぜる。
「──そろそろかしらね」
ティースプーンを突如上に向ける。伝った紅茶は彼女の手を汚し、テーブルに垂れた。
「え」
途端、周りがバタバタと倒れていく。座っていた者はテーブルに頭を打ち付けた。その振動によってカップの中の紅茶が滴り落ちる。
「なっ何が!」
起きているのはエレーナとリリアンネ。そして彼女付きの侍女達のみ。他の令嬢は全員倒れている。いや、寝ている。
「あら、効いてないの? ちゃんと飲まなかったのかしら。それとも耐性が……」
本当に不思議そうにコテンと頭を傾げる。「どうして?」と紡ぐのは無邪気で、邪な感情が入ってなくて、本当に、純粋に、エレーナが寝ていないのが意味わからないという風な感じだ。
「まあいいわ。それなら直接奪えばいい。貴方たち拘束なさい」
命令された彼女達はエレーナを拘束する。
「ごめんなさいね。どちらにせよ貴方の意識は奪わなければならないの。お父様からはそれだけでいいといわれたけど……」
リリアンネは頬に手を当てて考える仕草をし、返したハンカチとは別の布でエレーナの鼻先を覆う。
思わず息を吸えば、天幕に充満していた甘ったるいアロマではない。もっと強く鼻につく、眠気を誘う臭い。
「──王女殿下と一緒に消えてもらうわ。1人も2人も同じ。お父様も許すでしょうし。邪魔なのよ貴女」
掠れていく視界の中でリリアンネの言葉が頭の中にこだました。