62.拭いとる
喇叭の音を聞いた者は皆、馬を繋ぎ止める場所までナイトを迎えるために移動した。
ジェニファー王女はやはり視界が悪いのか、ルヴァに手を引かれてここまで来ていた。途中で何度か石につまづき、転びそうになっていたが脅威のバランス力? なのか、体勢を立て直して歩いていたので凄いと思う。
最初の一頭を皮切りに、とどめなく男性陣が帰ってくる。
「お帰りなさいませ」
目の前に止まった馬から飛び降りるように地面に足をつけたアーネストは、エレーナの言葉ににっこり笑った。
「ただいま」
「午前はどうでしたか?」
「まあまあかな」
手網を引きながらアーネストが移動を始めたので、エレーナも付いていく。
「まあまあがどれくらいか私には分かりませんが……」
エレーナは狩りをしたことがない。趣味で行う令嬢もいるが、自分の手で生き物の命を刈り取る行為はできそうにもない。
「んー良くも悪くもない、平凡ってこと」
本気を出せば良い順位が取れるが、今回の狩猟大会に参加した主旨は別にあるのと、ただ単にめんどくさいので、アーネストは程々に手を抜いていたのだった。
なんせ自分で狩った獲物をここまで運ばなければいけない。野ウサギや野鳥くらいならば馬に吊るして持ってこれる。しかし、もっと大型な鹿や豬になると、面倒臭い。
そんなアーネストの態度を一緒に狩りをしていた騎士団の者は勿論のこと、リチャードやギルベルトは知っていた。
だがエレーナはそんなことを知らないので、アーネストの言葉通りに受け取った。
「目立ちすぎるのも悪いですからね。それにアーネスト様は剣術の方が得意でしょう? あと、失礼しますね」
フォローになっているのか分からないフォローをして、先に水で濡らしていたハンカチを手に持つ。
そのままつま先立ちになって、左手をアーネストの頬に添え、右手に持ったハンカチで彼の顔を拭いた。
「動物の跳ね返りの血がついてました。これで取れたはずです」
プルプルと震えるつま先立ちの状態から、元に戻ってバッとハンカチを広げる。エレーナの言った通りそこには赤い染みができていた。ちょっと黒いのは時間が経って酸化したからだろう。
「エレーナ嬢」
「はい」
「顔を近づけるのは……やめてくれ」
「……っ! ごっごめんさい。なにも考えずにわたし!」
言われて気がつく。綺麗な顔が汚れているから拭いてあげよう。その思いしかなかった。しかしここは他の貴族が沢山いる。そんな場で!!! 今更己のしたことが恥ずかしくて。顔が赤くなってしまいそうだ。
「いや、そういうことじゃなくてね。──あー、誤射だとか言ってあいつに撃たれそう」
嫌な予感がする。後ろから殺気を感じる。アーネストはぶるりと反射的に震えた。
エレーナはそういう物に鈍感なので、そんなアーネストを見てキョトンとしていた。
「誤射……? されたのですか?」
どこかケガでもしたのだろうか? 心配になって全身をくまなく探る。
「ううん。今からされそ──」
言い終わる前にアーネストは口を塞がれた。顔は──見なくてもわかる。リチャードだ。
「余計なことをレーナに吹き込まないで」
耳元で冷たい吹雪のような声色で囁かれ、アーネストはこくこくと頷いた。
「あら、リチャード殿下おひさし──」
挨拶をしようとして1か月前のことを思い出し、思いっきり目線を逸らしてしまった。
あんなの家族以外からされることはなかったので免疫がないのだ。あれからも度々思い出しては悶絶していたのはエレーナだけの秘密。今も気を抜いたら頬が火照りそうになる。
「なんで顔を背けるのかな」
獣の血と土で汚れてしまった手袋を脱いで、リチャードはエレーナの顎に手を当て、こちらに向けさせる。
「そっ、それは」
必然的に目線が合った。目と鼻の先にリチャード殿下の顔がある。
──近い! 近すぎる!!! 無理!
あさっての方向を向きたいのに、リチャード殿下がそれを許してくれない。
「レーナ、僕の顔にはアーネストのように血がついてないかい?」
「そっそうですね……頬の辺りに少しだけ付いてる……かもしれません……」
直視できなくて瞳を細めて見た。若干だが、鮮血が付いている。
「あっ! 拭くものが必要ですよね。これをどうぞ」
血を拭った面を中に折りたたんでリチャード殿下の片手に手渡そうとした。
しかし、あと少しのところで殿下の手が引っ込む。
不思議に思ったエレーナはもう1回ハンカチを手渡そうとした。だが、受け取ってくれない。
──どうして? 拭きたいのよね?
「殿下……?」
「──僕はどこが汚れているのか分からないからレーナが拭いて。アーネストにやったみたいに」
エレーナは数秒ほどフリーズした。
笑顔で言われてしまえば断ることは出来やしない。既に人の注目を集めつつあり、これ以上他人の好奇な視線の対象になりたくない。エレーナは意を決してギュッとハンカチを握った。
エレーナは背伸びしようとしたのを見て、リチャード殿下が少し屈んでくれた。
「──失礼しま……すね」
男性なのに女性よりもきめの細かい肌。手を当てて、素早く鮮血を拭いた。
「はい、終わりました」
すぐさまリチャード殿下から距離をとる。脱兎のごとく逃げ出したエレーナの様子に、見守っていたアーネストは口元を押さえて笑っていた。