60.アレクサンドラの怒り
「遅れる人がどこにいるわけ!? しかも寝坊とか!」
「ごっごめんって……馬車の中でも謝っただろう? 機嫌を直してくれないか? サーシャ」
足蹴りが直撃して座り込んでしまった青年の正面に、腕を組んでいる令嬢──アレクサンドラが立っている。
(また、アルフレッドがサーシャを怒らせたのね)
この光景に慣れていたエレーナは冷静に観察していた。しかし何故このような状況になったのか理解不能な受付人は口をあんぐりと開けている。
「あのねぇ! あなたがそんなぼやっとしてるから婚約もお父様に猛反対されてたのよ! 爵位の関係もあるけど貴方の性格のせいもあるの!」
「その話を掘り起こさないでくれよぉ……」
平謝りする青年の首を掴んで立たせたアレクサンドラはようやくエレーナに気がついたようだ。驚いたように目を見張り、エレーナに近づいてくる。
「見苦しいところ見せてしまったわね」
汚い物を触ったかのように両手を叩きながらアレクサンドラは言った。
「ううん。構わないわ慣れてるし」
エレーナが2人を見る時は大体こういう時だ。たまにイチャイチャ? している所を見ることもあるが……。喧嘩するほど仲がいいというのが彼らにピッタリの言葉だ。
「さっサーシャどうしたら許してくれるかい?」
「…………大会の成績であなたの誠意を見せて」
「分かったよ」
言うが早いか青年は馬の方に転げるように走っていった。
「またアルフレッドはやらかしたの?」
「そうなのよ。あの人大会の開始時間を間違えてて、寝坊したわけ! ほんっっとに馬鹿なんだから」
毎年開催時間は同じなのにどうやったら間違えるんだろうか……。執事とかが起こさなかったのかしら?
エレーナの疑問はすぐに解消された。
「──あの人朝が弱いせいで起きないのよ。時間になっても家に来ないから私が迎えに行ったらまだ寝てたの! 思わず寝ているアルフレッドに平手打ちしたわ」
「え」
「そしたら彼、なんて言ったと思う?」
彼女の怒りは収まらない。エレーナと受付人に迫る。
「さあ……?」
「私にはわかりかねます……」
「あの人、『どうしたの? サーシャ迎えに来てくれるなんて嬉しいな』って間抜けな顔して言ったのよ!!! 思わず胸ぐら掴んだわ」
ああ、これはサーシャ怒るわ。アルフレッドが悪い。朝に弱いエルドレッドよりも悪い。
口に出せばアレクサンドラの怒りがヒートアップするので、噤む。
「まあまあ、落ち着いて。ほら、ここは私達だけではないから……ね?」
周りを見るように誘導しながらエレーナはアレクサンドラを宥めた。
「そうね。後でにするわ」
深呼吸して一瞬で怒りを無理矢理閉じ込めたアレクサンドラは、荒れ狂っていた令嬢という印象から落ち着いた令嬢に早変わりする。まあ隣にいる受付人にはもう通用しないと思うが……。
──この人、他の貴族に話さないかしら?
ふと、不安になって一応釘を刺すことにした。
アレクサンドラがアルフレッドに足蹴りをくらわしたなんて噂、広まってはいけない。
「貴方、今見た事他の人に言っては駄目よ。言ったら……どうなるか分かるわよね?」
笑みで圧をかける。爵位を使って人に言うことを聞かせるのは嫌いだ。だけどたまには有効活用しなければ勿体ない。使うなら──今だ。
「はっはいもちろんですっ」
背筋を伸ばして直立不動になった受付人。
「──私の受付を済ませても?」
エレーナの意図に気が付いて、恥じているのか、それとも──失態を晒したと思ったのか。アレクサンドラも微笑みを浮かべながら圧をかけた。
「大丈夫です! 御名前は──」
「──アレクサンドラ・カランド」
持ったペンが小刻みに動いている。見ると受付人の手が震えていた。こんな全然怖くない圧で怖がっていて大丈夫だろうか。悪質な貴族はもっと熾烈なことをしてくるけれど。
思わず彼の将来を心配してしまう。令嬢ならまだしも、彼の性別は男だ。1,2年経ったら女よりも腹の探り合いや策略だらけの場所に足を踏み入れるだろう。彼はその世界の中で生きていけるのだろうか。
──素直そうだし、口は軽そうだし、無理そう……
エレーナは彼に世渡り上手な友人が居ることを願うしかできなかった。