57.王女殿下
「ジェニファー・ルルクレッツェ王女殿下、お初にお目にかかります。エレーナ・ルイスです。お会いできて光栄です」
ルルクレッツェ国の言語でエレーナは挨拶の言葉を紡ぐ。たどたどしくなってしまっただろうか。こういう場で他国の言語を使ったのは初めてで、不安になってしまう。
ジェニファー王女はエレーナとおなじ十七歳だ。この大陸では珍しく、隣国は男女関係なく王位継承権が出生順である。
王女の下には三人の王子がいるが、彼女は長女であり、王位継承順位が一位。つまり未来の女王となる人だった。
だからこの前の式典で、王の名代として参加していたのだ。
そんな人が目の前いる。エレーナは緊張せずにはいられない。
持っていたバスケットを地面において、カーテシーをする。指の先まで神経を尖らせる。
式典よりも生地が厚いヴェールを付けているのだろうか。あの時うっすらと見えていた瞳の色は、分からなかった。それに伴って表情も窺えない。
衣擦れの音がする。王女殿下の手が視界の端で動いた。
視線を上げて相対すると、腰掛けていた王女のヴェールが揺れた。頭に乗った小ぶりのティアラ。隣国特有の艶やかな黒髪は下の方で紅いリボンで緩く結ばれている。
立ち上がった彼女はお付きの侍女に耳打ちした。
「王女殿下は〝こちらこそ会えて嬉しいわ。今日一日よろしくね〟とおっしゃっています」
侍女はスタンレーの言語をその口から紡いだ。
どうやら王女の言葉を代弁したようだ。直接お声を聞けないのはなにか事情があるのだろうか。
エレーナのそんな疑問はすぐに解消された。
「申し訳ないのですが、ジェニファー王女殿下は喉を痛めていまして、わたくしが代わりにお答え致します」
侍女が答える傍らで、王女は両手を口元近くで合わせてすまなさそうにしていた。
「そうですか。季節の変わり目ですのでお身体ご自愛くださいませ」
隣国とこの国では気候に差がある。今は夏から秋に移る時期、朝夕の気温差も激しい。加えて慣れない長旅をして王女は来ているのだから、体調を崩してしまったのかもしれない。
ジェニファー王女は机上に置かれていた紙にスラスラと何かを綴った後、こちらに見やすいよう掲げた。
『ごめんなさい。こちらに来て喉の調子をおかしくしてしまったの。今日は他の方とお話ができると聞いて楽しみにしていたのだけど……』
見事な手跡だった。ヴォルデ侯爵は、王女殿下がこちらの言語が苦手だと言っていたがそのようには見えない。文字を書く際止まった様子はなかったし、文法も完璧だ。
『筆談だったらゆっくりになってしまうけれど話すことが可能だわ。あとはルヴァを通してになってしまうけどよろしくね』
ルヴァとは状況的にお付の侍女の名前だろう。
隣にいた彼女が軽く頭を下げた。
『そうそうお近付きの印に』
王女はルヴァに何かを持ってくるように指示した。一旦外に出たルヴァは数分で戻ってきた。その手には小箱がある。
ルヴァから渡される小箱を受け取る。
『開けてみて。気に入ってくれると嬉しいわ』
言われて蓋を開ける。パカッと小気味いい音がして開かれた小箱の中にあったのはブローチだった。
金の細工が施され、カランコエという花の形を模した真ん中に、宝石が嵌め込まれていた。
「事前にどの御方がどの天幕なのか確認していたジェニファー王女殿下が、用意された物です。天幕が違う方にも用意しております」
ルヴァが補足してくれる。つまり、みんなに贈られるものということ。大盤振る舞いだとしても、よくこんな大人数に配れるものだ。
「頂いてよろしいのですか?」
『もちろん』
大きく頷かれた。
『私が着けてあげるわ』
滑るようにエレーナの方へ近寄り、白魚のような手がエレーナの持っていたブローチを摘む。
王女殿下が付けられている香水なのか、爽やかな柑橘類の匂いが鼻をくすぐった。
ヴェールで視界がよくないからか、少しだけもたつきながらエレーナの左胸にブローチを着けてくださる。
「ありがとうございます」
きっちり着けられたブローチは、室内の灯りを反射して煌めいている。
(可愛い。まさか王女殿下から直接頂けるなんて)
ちょんっと王女殿下の前だが思わずブローチをつついてしまった。
「──どういたしまして。とおっしゃっています。あと似合っているとも」
ずっと固い表情をしていたルヴァは、王女殿下に代わってか、少しだけ表情を緩めた。