51.迎え
──1ヶ月後
エレーナは、見送りするために待機しているデュークやリリアンと共にエントランスにいた。
まだ朝日が昇り始めたくらいの時間帯だ。エレーナは眠くて眠くて仕方がない。起きた時も、船を漕ぎながらリリアンに全て支度を任せてしまった。
今も欠伸を噛み殺しながら立っている。時折我慢できなくて、口を大きく開けて欠伸をする度に、「はしたない」とデュークに小言を言われていた。
ちなみに家族達はまだ起きてないらしい。けれど今日の行事を考えたらそろそろ起きていなければ遅刻になってしまう。
──大丈夫なのかしら? エルドレッドとか朝起きるの苦手なのに……
ちらりと家の奥を見ると、エルドレッド付きの近侍が忙しなく廊下を行ったり来たりしていた。その様子を見るに、中々エルドレッドが起きないのだろう。
──おそらくこのまま行くと使用人達は弟の顔を氷水に沈めて起こす作戦に出るわね。
声をかけただけでは起きないことが多々ある弟。
もう少し小さかった頃に、エレーナがエルドレッドの寝台にダイブしても、頬を引っ張っても、馬乗りになっても起きやしない。
時間に余裕があるのであれば頬を優しく叩いたり、寝かせたままにしておく。
しかし、時間がないときは────
「おい! 誰か坊っちゃまを沈める氷水を持ってきてくれ! このままでは間に合わない」
案の定エルドレッドの部屋の方から声が聞こえた。
「ああ、坊っちゃまはまだ起きていないのですか……」
デュークにも声が聞こえたらしく、嘆いている。
──氷水に顔を沈める
それはエルドレッドが起きない時の最終手段だ。
言葉の通り、キンキンに冷えた氷水の中にエルドレッドの顔を沈めてその驚きで目を覚まさせる作戦。
自分は絶対にやりたくないとエレーナは思う。というかやらせないし、許さない。おふざけてやってきた者がいたら、多分とても怒る。
しかしエルドレッドはそれでしか自分が起きれないことを知っているので、自ら最悪の場合それで起こしてくれと頼んでいる。
2人がかりで近侍達が大きな盥を部屋に運んでいっている。
──うわぁ……冷たそう。
まだ冬は訪れていないが、盥にたっぷり入った氷と水。顔を突っ込んだら眠気覚ましというより、心臓を止めにかかっていると思う。
あれでしか起きられないエルドレッドは、朝が苦手というより、もはや才能か何かだろう。
2~3分で部屋の方から「ギャアッ! 冷たっ! なんだこれ?!」という短い断末魔と驚きの声が聞こえた。どうやらようやくエルドレッドが起きたらしい。
この後に何が起こったのか把握出来ていない弟を着替えさせ、口の中に朝食をつっこまなければいけないので、いつものことながら、弟の朝の身支度を手伝っている近侍達は大変だ。
「あの方法で起きるのはいい加減やめて欲しい……」
デュークがつぶやく。それはそうだ。あんなの心臓に負担をかけるだけの代物。仕える主人達の寿命を縮める可能性だってあるのに、喜んでやらせる執事はどこにもいない。
デュークだって本当はやめさせたいに決まっている。
けれど、あれ以外で酷い時のエルドレッドは起きないのだ。
デュークは溜息をつきながら傍にいた使用人の1人に、エルドレッドの部屋に朝食を持っていくよう言付けた。
──私の家の執事は……ほんとに苦労しているわ
ルイス公爵家はデュークがいないと成り立たないと言っても過言でないほど彼に頼っている。
もう少しお父様がしっかりしてくれれば彼の負担も減るだろうに……。
ふと、馬の嘶きが聞こえたような気がして、視線を前に戻すと、1台の馬車が門をくぐり抜けて近付いてきていた。
エレーナはしゃきっと背筋を伸ばして、スカートの皺を伸ばした。デュークも対客人用の愛想笑いを顔に貼った。侍女達は──そわそわし始めて、デュークに叱られた。
「迎えに来たよエレーナ嬢」
「アーネスト様お久しぶりです。今日はよろしくお願いします」
馬車から降りてきたヴォルデ侯爵はエレーナの正面に立った。
彼は森の中を歩く用の長いブーツに灰色の長ズボン、そして灰緑色のハンティングコートを着ていた。シンプル且つ狩猟するのに最適な服装だ。
それに対してエレーナは、ヴォルデ侯爵よりは華美であるが普段よりは動きやすい服装に、腰まである髪をふたつに編んで、お団子にしている。リリアンが言うには流行りの髪型らしい。
エレーナも結わってもらってとても気に入った。これからも度々リクエストしようと鏡を見ながら考えたほどだ。
手にはハンカチとその他諸々を入れたバスケット。忘れ物がないか再度中身を確認し、蓋を閉じる。
「似合っているよ」
上から下までエレーナの服装を見たヴォルデ侯爵は口を開いた。
「ありがとうございます。アーネスト様こそお似合いですよ」
形式的な挨拶を返し、リリアン達に別れを言って、馬車に乗り込む。ヴォルデ侯爵はエレーナの正面に座った。2人しか居ない車内には、狩猟用の道具や銃が空いたスペースに乗せられている。
「すまないね。狭くないか?」
「大丈夫です」
隣にバスケットを置いて、ヴォルデ侯爵の言葉に頷く。すると彼はほっと安堵した表情になった。