48.嫉妬
「──遠慮しときます」
噂話は好きではない。陰でコソコソと他の者を貶める行為は……自分がされたら嫌だから。
「そうだよなぁ。エレーナ嬢はそんな感じする。では──」
「アーネスト」
紅茶を飲んでいたリチャード殿下が制止した。
その姿だけで肖像画が描けそうで、目に焼き付けておきたいほど綺麗だった。
「なんで止めるんだ? 普通に話してるだけだ」
キョトンとしているヴォルデ侯爵。
「用事はすんだのだろう? 長時間滞在するのは悪いし帰ろう。そもそも私がここにいるのは……結構まずい」
口を拭いたナプキンを左側に軽くたたんで置き、リチャード殿下は立ち上がった。
いや、自覚あったんですね……とエレーナは心の中で突っ込まないではいられなかった。
「お帰りならお見送り致します」
デュークに扉を開けさせて、3人はエントランスに向かう。
「また、来るよ」
前を進むエレーナの隣にヴォルデ侯爵は来て、リチャード殿下に聞こえないくらいの音量で言った。
「あっはい。ですが次はお父様がいる時にお越しくださいね」
大方婚約の話だろう。今回の発端はヴォルデ侯爵のせいっぽいので、一応釘を刺しておく。
軽く睨めば頭の上に手を乗せられた。突然の事で反応できなかったエレーナはそれを受け入れてしまった。
「分かってるよ。今回の目的は達成したから。エレーナ嬢のおかげで今日はいい物が見れた。感謝するよ」
感謝される覚えはないが……。むしろこの状況を作り出したヴォルデ侯爵に抗議したいくらいだ。次からはもっと先に──遅くても1日前には、来ることを教えて欲しいものだ。
「ありがとうございます」
嫌味ったらしくエレーナは言った。同時に頭に乗っていた手を振り落とす。振り落とされた手を見て、ヴォルデ侯爵は何故かまた笑った。
エントランスに着けば、外には既に馬車が横付けされていた。
「それではまたお会いできる日を楽しみにしています」
王宮に行く予定は今のところないので、殿下と会うとしたら狩猟大会の日だ。
頭を下げて立ち去るのを待つ。
いつの間に移動したのだろうか。そばに寄ってきたリチャード殿下はエレーナに尋ねた。
「──レーナ、レーナは僕のことが嫌い?」
そっと手を握られて、もう片方の指がエレーナの甲をなぞる。
「わたしは……」
まさかそんなことを尋ねられるなんて想像してなく、言葉に詰まる。一体リチャード殿下はどうしたのだろうか。今日の殿下はどこか変だ。
──嫌い? そんな感情を抱くわけない。
「いいえ。好きですよ──お兄様みたいで、優しい殿下が」
取られた手を見ながら。嘘と本音を半分ずつ混ぜた。
──まだ……言えない。
さらりと前髪を撫でられる。少し冷たい手の感触とくすぐったさに瞳を閉じて開ける。
「そう……どうしたら君は気がついてくれるかな」
突如、車椅子に乗っているエレーナに影が落ちる。
瞬きをするよりも先に近付いてくる整った顔に思わずギュッと目を瞑る。すると柔らかい感触を額に感じた。
──いま……何が
驚きで目を開けるとまだ近くに殿下の顔がある。エレーナは硬直した。
「またね。レーナ」
下ろしていた横髪を取られ、目の前でキスされて殿下の手の中からはらりと零れ落ちていく。
リリアンによって毎日梳かされている髪はシャンデリアの光を反射してきらめいていた。
それにまたエレーナは驚いて、理解できなくて、ドクドクと大きくなる鼓動。熱を孕み始める身体。
視線が右往左往するエレーナに、イタズラが成功した子供のような感じで笑ったリチャード殿下。屈んでエレーナの両頬にも優しく啄むようなキスをした。
「では、失礼」
デュークに対して一言言って、何事も無かったかのように踵を返してエントランスを出ていく。その後ろ姿は少し陽気だ。足取りが軽い。
ヴォルデ侯爵はそれをにやにやと笑いながら、「またねエレーナ嬢」と言ったが、それはエレーナの耳から耳へ通り抜けた。
残されたルイス公爵家の面々は大変だ。
デュークは口元が痙攣しているし、お付の侍女は真っ赤になっているし、リリアンは──何故か目を輝かせて口元に手を当てている。なんだかとても嬉しそうだ。
馬車が滑り出して行くのをエレーナは硬直したまま見送った。
額に手を当てる。触れられたところが熱を持っている。
客人が居なくなったことによって、周りが騒がしくなり始めた。
感嘆と黄色い悲鳴とそれはもう様々だ。
だが、エレーナの耳には入ってこない。
何が起きた……? まず、リチャード殿下の顔が近づいてきて……それで────
かぁぁぁっと全身の体温が上がる。舞踏会の時より真っ赤になる。冷房は利いているはずなのに熱い。お風呂に入ったあとのように熱い。
「お嬢様大丈夫ですか?」
「リリアン……ごめん私……もう無理」
言い終わるやいなや、脳内のキャパがオーバーしたエレーナは意識を手放した。