41.クイーン
「足は大丈夫なのかい? 傷は残るのか?」
笑い終わったアーネストはエレーナに聞く。
「ええっと……おそらく残らないと言われました」
「それはよかった」
他愛もない話をヴォルデ侯爵としていた数分後、運ばれてきた紅茶をエレーナは両手で持って口に含んだ。
その間、リチャード殿下は無言を貫いていた。リリアンが紅茶を傍に置いた際も、軽く会釈しただけで言葉を発さない。
どうしてだろうか? 何か粗相を……何もしてないはずだけど。
「リチャード殿下、お加減が悪いのですか? 目の下にクマが……」
昨日までなかったはずだ。なのに今はうっすらとクマができている。体調が悪いのに無理して来てくれたのかもしれない。そもそもお見舞いだなんて来なくても大丈夫なはずだ。それほど心配をかけてしまったのだろうか?
「いや、これは単に寝不足なだけだよ」
エレーナの心配を拒絶するかのようにリチャードは目元を隠す。
その様子を見て心が痛む。まるで信頼されてないかのようで悲しくなった。エレーナに悲しむ資格などないのに。
「昨日はそのまま帰ったのかい」
いつもの、優しいリチャード殿下だ。逃げたのはエレーナなのに怒りをぶつけることも無く、ただ労るような感じだ。
「はい……待てと言われたのに、あの場を辞してしまって申し訳ございません」
「それは仕方ない。メイリーンから話は聞いたよ」
紅茶を持っていた手が震えた。今、殿下はクロフォード伯爵令嬢を────呼び捨てにした?
いつもなら〝嬢〟や家の爵位を付けて呼ぶはずだ。しかし、メイリーン様のことは──
リチャード殿下はそれに気がついてない。ようやく手にしたラベンダーティーを口に近づけていた。
青ざめはしなかったが、手先が冷えていく。カップをソーサーに置いて、両手を膝の上に乗せる。
「メイリーン様と仲がよろしいのですか? あの方はあまり外に出られないと聞いていたのですが」
「仲がいい訳では無いかな。数度会う機会があっただけで」
リチャード殿下は冷静さを保っているが、目線が左上に泳いでいる。
リチャード殿下のこの癖をエレーナは知っていた。彼が左上を見るときは話したくないことがあるということ。つまり、メイリーンは他の令嬢と比べて何か違う、特別な存在。
──ああ、やっぱり。
もっと落ち込むかと思ったが、想定よりは気分が沈まなかった。
それでも心に暗雲が垂れ込めそうになる。
淀む空気を切るように動いたのはヴォルデ侯爵だった。
「──そうだ。エレーナ嬢これ」
どこに隠し持っていたのかと不思議に思ってしまうほど、ヴォルデ侯爵はバッと小ぶりの花束を目の前に差し出した。
「まあ! 薔薇ですか?」
「見舞いには花束が主流だろう?」
「ありがとうございます」
手渡しで受け取る。
花束といっても6本のオレンジの薔薇がリボンで結ばれている程度だ。これくらいならどこに飾っても邪魔にならない。
しかも、この意味合いは……面白いお見舞い品だと思う。赤色じゃなくてオレンジ、という所もポイントだ。
自然に顔が綻んでしまう。花は好きだ。家の庭にはエレーナの花壇もあって、趣味で花を育てたりもする。
「大切に飾らせていただきますね」
「それは光栄だ。ところでエレーナ嬢は狩猟大会で誰のクイーンになるんだ?」
突然切り替わる話題。侯爵がここに来た理由は婚約の話かと思っていたが、本題はこれだったらしい。
「わたしは……誘いがなければ弟のクイーンですかね」
毎年恒例の狩猟大会。狩猟をするのは男性陣だが、女性陣にもすることがあった。
男性がナイトで女性がクイーン。狩った獲物をクイーンに捧げるという名目で、誰が一番の大物&個数を仕留めたか競う大会。
エレーナは毎年エルドレッドのクイーンとして参加していた。といっても女性陣は前準備以外することがないので、貼られた天幕内でお茶をして、自分のナイトが帰ってくるのを待つだけだ。
男性陣が帰ってきたら彼らを労い、家紋の刺繍を施したハンカチを渡す。とても簡単な行事。
ほとんどの人は男女のペアで参加する。他にも親子3人ナイトで、奥方だけクイーンという家もある。まあ人それぞれだ。
「そこでお願いなんだが……私のクイーンになってくれないか?」
「はい喜んで」
エレーナは迷う素振りもなく、即答した。
途端、侯爵の隣に座っていたリチャード殿下がお茶を軽く吹き出した。噎せる殿下にエレーナは慌ててハンカチを渡す。
「リチャード殿下大丈夫ですか? どうぞお使い下さいませ」
「あっありがとう……ケホッ」
酷く動揺しているらしい。見たこともないほど視線が侯爵とエレーナの間で行ったり来たりしている。
関係ないリチャード殿下でさえ狼狽しているのに、当の本人のエレーナは驚かなかった。
なぜならここまではヴォルデ侯爵と事前に話していた予定調和だったから。
昨日の条件の1つ目。
それは──エレーナがヴォルデ侯爵のクイーンになること。
他の人のクイーンになれと言われるのなら拒否したかもしれないが、あとで婚約を結ぶ人なら何ら問題は無い。
「れっレーナはそんな簡単に承諾していいの?」
「あら、では殿下が私をクイーンにしてくれますか?」
間髪を容れず、にこやかに答えれば、リチャード殿下は口元を押さえていたハンカチを床に落とした。