34.戻ってくると
「あぁ! エレーナ! どこにいたんだい」
エレーナの姿を見つけた1人の男性──お父様が駆け寄ってくる。
「少し外の空気を吸いたくて。庭園の方に」
「また怪我をしたのかい?」
足の方に目が向けられた。エレーナはばつが悪そうに身を竦ませる。
──やはり気になるわよね……少し迂闊だったわ
「は……い」
ヴォルデ侯爵に背負われたまま、答える。明るい場所に来れば自分の服装が一目瞭然だった。ボサボサになった髪に、所々ほつれているドレス、裸足に加えて薄汚れた包帯は、じわりと赤みが増していた。
痛みが段々と大きくなってくる。どうやら出血しているようだ。
エレーナの靴はヴォルデ侯爵が持ってくれていたようで、背中から下ろされる際に手渡される。
履かせようとしないのは、湖畔でエレーナが靴を履いた時、痛みに顔を顰めたのに気が付いていたからだろうか。
結構上手く表情を隠したと思ったのだけど……。
「……下ろしてしまったけど歩けるか? 馬車まで運んでもいいのだが」
令嬢として酷い有様を彼も気がついたようだ。先程までは月明かりしかなかったし、ここまで酷いとは思わなかったのだろう。僅かに顔を歪ませたヴォルデ侯爵は、すぐに表情を取り繕う。といっても心配顔になっただけだけど。
「これ以上お手を煩わせるのも……」
見回りの最中だと侯爵は言っていた。この時点で結構な時間費やしてもらっているのに、そこまでしてもらうのは負担が大きくなってしまう。
「別に煩わしいことだと思わないさ。元々の仕事の役割は警備と体調不良者を運ぶことだから。──ルイス公爵、エレーナ嬢はもう帰るのですか?」
「娘の怪我は酷いようですので……帰らせようかと」
一体今まで何をしていたんだと、視線で怒られているように感じる。これは家に帰ったら久々の説教コースかもしれない。滅多に怒らないお父様は、怒ると怖いのだ。
──ヴォルデ侯爵との婚約の話は、今日は切り出さない方がいいわね。
説教の引き金になりそうなものは極力取り除いた方がいい。
まだ行事までは日程がある。最悪再来週に伝えても間に合うだろう。エレーナはタイミングを見計らって伝えようと思った。
「娘がご迷惑をおかけしたようですね。申し訳ない」
お父様が頭を下げる。
「……迷惑と言うと……エレーナ嬢は初対面の相手に突拍子もないことを突然言うみたいですね」
「と言うと?」
あっまずい。非常にまずい。
ヴォルデ侯爵が何を言おうとしてるのか、エレーナは分かってしまった。突拍子もないことといえばひとつしかない。特に彼が関係していることは。
これ、逃げた方がいいかしら? 思わず帰り道を確認する。靴を持って、ジリジリと後ろに後退する。
なのに……ヴォルデ侯爵はエレーナの腕を素早く掴んだ。
──に・げ・る・な
彼の口が動く。
先程の仕返しとばかりに爆弾──婚約の話を投げ込まれる直前だった。にっこりとこちらに微笑んだヴォルデ侯爵が怖い。笑っているのに笑っていない。
爽やかな青年といった感じだったのに、一気に喰えない顔になる。貴族の仮面だ。
それを見てエレーナは歎息した。どうやら諦めるしかなさそうだ。
「──湖畔にいたのを見つけ、声をかけると、エレーナ嬢にプロポーズされましてね」
「プップロ? プロポー──」
金魚のように口をパクパクさせているお父様。頭の処理が追いついていない。想像していたよりも火の玉ストレートな発言に、エレーナは咄嗟に逃げようと足掻くが、掴む力が強くなるばかり。
力の差は火を見るより明らかだった。そもそも女であるエレーナが男のヴォルデ侯爵に勝てるわけがない。彼から見れば赤子の手をひねるより、エレーナの手を掴まえている方が簡単だろう。
「違います! プロポーズではなくて婚約のお願いで……むぐっ」
空いていた方の手で口を塞がれた。手と口を押さえられている今、目だけで抗議を送るが無視される。
「どちらも同じでしょう」
耳元ですっぱりとぶった切られた。ムッとしたエレーナを見て、ヴォルデ侯爵の口角が上がる。反応を見て楽しんでいるらしい。そこだけ見ると性格が悪い……。
──血は似るのね。リチャード殿下とそっくりじゃない
先代のヴォルデ侯爵夫人は、今上陛下の妹姫にあたる方。つまりリチャード殿下とヴォルデ侯爵は従兄弟であった。
エレーナを抱き上げた際のリチャード殿下の表情と、今の彼の表情が重なる。
「…………どうやら娘が取り返しのつかない失態を働いたようで」
真っ青になったお父様は今にも芝生の上で土下座をしそうだ。
「ああ、怒ってないですし、驚きましたけど別にいいんですよ。元はといえば、私の方から申し込みましたし、承諾したので」
「しょっ承諾?!!!!」
あまりに大きな声で、遠くにいた貴族達も振り返る。エレーナは他の人に聞かれてないか内心焦った。
「はい。私もちょうど婚約者を探していましてね。エレーナ嬢と利害が一致したのですよ。これほど美しい令嬢と結べるのは光栄です」
少しも思ってないだろうに。
そもそも、あの態度からして婚約者を探していなかった。エレーナだってそれくらい分かる。まあそれを口に出すことはしないけれど。
「──お父様、私がしたいと思った方と婚約していいと仰いましたよね? そのしたいと思える相手が侯爵様です」
口から手が離れてようやく言葉を発せる。
「……無理やりエレーナが迫ったのでは……?」
いつもは疎いお父様。こういうのにだけは鋭いからはっきり言ってタチが悪い。
「…………違いますよ」
「…………そんなことするわけないです」
前者がヴォルデ侯爵、後者がエレーナ。
示し合わせたわけではないのに、沈黙までもピッタリだった。