32.月下の元で(2)
「何か保護するものは?」
「包帯が……ありますけど……」
少し土で汚れた薄い包帯を差し出せば、ヴォルデ侯爵は慣れた手つきで優しく巻き直してくれる。
「ありがとうございます」
「これくらいお安い御用だよ」
キツすぎもせず、緩くもない丁度いい塩梅で巻いた包帯を、最後に蝶結びしたヴォルデ侯爵はエレーナの隣に腰掛けた。
「ヴォルデ侯爵様は何故ここに?」
「たまにお酒に酔って水の中に飛び込む連中がいるのを知っているかい?」
ああ、聞いたことがある。毎年羽目を外して水の中に飛び込む輩がいると。そして大体水が冷たすぎるのと、お酒が回っていてはしゃぎすぎで風邪を引いてしまう人が続出すると。
「知っていますが……それは……」
「じゃあ分かるだろう? おかしな真似をして、飛び込んだ者を介抱するものが必要になる」
酔っている人ほど融通が利かない。話を聞かない。会話をするのにも精神的に疲れてしまう。お父様がベロンベロンに酔ってしまった時でさえ、介抱するのに苦労した。何を思ったのか、暴れだしたのだ。使用人が数人がかりで取り押さえ、無理やりベッドに縛り付けた。
エレーナはそれを邪魔にならないくらいの距離でずっと観察していたのを覚えている。
あの時の醜態は、お母様が定期的に掘り返してはお父様に釘を刺す道具として使われている。いい加減やめて欲しいとお父様は言うが、多分死ぬまで無理だろう。早く諦めた方がいい。
身内でさえ苦労するのに、見知らぬ人の相手をするのは……とても大変そうだ。
「──わたしは騎士だからね。そういう理由もあってこの場所も警備対象なんだよ。今はちょうど見回りに来たところ」
その言葉に腰の付近を見れば、黒い柄に入った剣を携帯している。
──そういえばヴォルデ侯爵家は騎士団の家だったわ
国に為に仕える──黒の騎士団。
その団長を代々担っているのがヴォルデ侯爵家だ。団長を務めるだけあって、剣術も一流。独自の秘伝の技も受け継がれているようで、今代のアーネスト様に至っては、年に1回開かれる剣術大会で初出場から無敗の御方だ。
遠くからだが決勝の試合を観戦した際、あっさりと相手を倒していたのを観たことがある。
軽やかに、重みがあるはずの剣をリボンみたいになめらかに動かし、相手の首筋にあてる。
たちまち青ざめる対戦相手と、造作もないという感じに観客に向かって頭を下げる侯爵の差が印象的だった。
観てるエレーナからしたら、もはや剣術ではなくて、舞踏のようだ。
そのせいで騎士の一部からは、ヴォルデ侯爵を殿堂入りとしてトーナメントから除外し、エキシビションのみにして欲しいと嘆願書が出ているらしい。
主催者側も他の騎士のことが気の毒に思えたのか、ヴォルデ侯爵を殿堂入りさせる方向で話は進んでいる。
元々の剣術大会の主旨は、騎士の原石を探すためのものだから、その案はちょうどいいのかもしれない。
「酒に酔った男達を引き上げるのは毎度大変なんだよ。今日は運がいいのか悪いのか男どもではなくてエレーナ嬢がいたが。さすがに君は水の中に入らないよな?」
──夏だが冷たい水だぞ? 深いから死ぬぞ? 助けるの大変なんだからな?
と言いたいのか真剣な目付きのヴォルデ侯爵の様子にエレーナは今日初めて、心の底から笑った。
「ふふっ。そんなことするはずがありませんわ」
久方ぶりに心から笑えた気がする。ちょっぴり瞳から零れた涙を拭いながら答えた。
「それなら良かった。なら君はこんな辺鄙なところにいないで会場に戻りなさい。君の父上であるルイス公爵達が探していたよ」
先に立ち上がり、エレーナに手を差し伸べられる。
すると憂鬱な気分が戻ってくる。
戻ることは……できない。まだ舞踏会は終わってない。戻るとしたら──目的を達成しなければならない。
──あれ? そういえば目の前にいるのでは?
別に興味がある訳では無いが、容姿、爵位、年齢──全てに申し分ない相手。
半年も前だが、こちらが断りを入れてないから手紙も有効なはず。
「あのっ」
エレーナは決意した。最初はどこに嫁いでもいいと思っていたこの身だ。ここで決めてしまってもいいだろう。突拍子もない考えだが最早そんなことはどうでもいい。
騎士であれば優しく……とまではいかなくても、虐げることはないはずだ。
「なに?」
紫水の瞳がエレーナを映す。
「────私と婚約していただけませんか?」
月の明かりのしたで、彼女は勇気を振り絞った。