30.逃亡
「っゴホッケホッ! はぁ」
「エレーナ様大丈夫ですか?」
駆け寄ってきたメイリーンに背中をさすられる。
「あっありがとう……ケホッ」
持っていたグラスをテーブルに置いて、差し出されたハンカチを受け取り、口元を押さえる。少し手袋に果実水が付着してしまったが、ドレスは見たところ無事のようだ。
しばらく咳をしていると落ち着いてきた。
「ごめんなさいね。ハンカチ洗ってお返しするわ」
「気にしないでください。それ安物なのでエレーナさんに差し上げますね。お嫌でしたら捨ててください」
(ずいぶんあっさり言うのね)
不思議に思ったが、彼女は屋敷の外にあまり出なかったと聞いている。
もし、その噂が本当ならば他の人と会う機会も少なかっただろうし、少し変わっているのもおかしくないのかもしれない。
(安物……には見えないのだけど)
口元を押さえていた事によって、エレーナの口紅が移ってしまった真っ白なハンカチ。広げてみると光沢があり、手触りから蚕の繭から採れるシルクが素材のようだ。
貴族からすれば大したことないが、品質が一番下のシルクでも市井ではそこそこの値段がする。
小さい頃から品質の見分け方を叩き込まれ、目利きができるエレーナから見れば、これは最高品質に準ずるもの。
おいそれと人様に渡せるハンカチでは無いはずだ。
「そんな事言われてもきちんと綺麗にしてお返しするわね。だってこれ……とても繊細な刺繍が入っているもの」
隅の方にポインセチアと葉が描かれている。特に葉がぐるりとポインセチアを囲んでいるのが、個人的に好きだ。
「そんなっ! 大丈夫ですよ。その刺繍は家にいて暇で暇で仕方なくて私が刺したものですし、大それたものでは無いので」
顔の前で手を振って苦笑するメイリーン。エレーナはその言葉に驚いた。
(メイリーン様が作ったの?)
そんなこと言われても、手元にある刺繍入りハンカチの出来栄えは、手先の器用さを羨ましく思ってしまうほどだった。その道の職人が作ったと言っても十中八九、人は信じるだろう。
貴族の嗜みとしてエレーナも刺繍は手ほどきを受けていて、人様に見せても恥ずかしくないレベルではある。
だけどメイリーンの作品は、自分の作品と比べることもできないほど天と地の差があった。どんなに努力しても越えられなさそうなくらい。
「貴女がそう思っても、私からしたら素晴らしいのよ」
心の底からの本音だ。
「……ありがとうございます」
少し間を置いて萎縮しながらメイリーンは言った。
意識半分にそれを聞き、エレーナはハンカチを握りながら別のことを考え、実行しようとしていた。
そろそろリチャードが戻ってくる気がする。廊下で鉢合わせを喰らう前に、最低でもこの階からは移動しなければならない。
(よし、これならいける!)
軽く脳内シミュレーションをして、息を吸って吐く。そして念の為、わざとグラスの縁に付いていたエレーナの口紅を手袋で拭う。
「──あっ! 手袋が汚れてしまっているわ……少し席を外してもいいかしら? 水にさらして軽く落としたいから」
なるべく違和感がないように言葉を紡ぐ。サッと手袋を脱いで後ろに隠してしまえば、メイリーンには分からないだろうし、手出しができない。
第一、本当に汚れているのだから嘘は言ってない。
「大丈夫ですか……? 王宮の侍女をお呼びしましょうか……おそらく近くに配置されているので」
「必要ないわ。それに私、人に自分の物を預けるの嫌いなの」
心配してくれているメイリーンに対して、良心の呵責が生まれる。人に物を預けるのが嫌いなのでは無い。それはこの場を立ち去る口実だ。
申し訳ないなと思いつつ、やはりエレーナはリチャードを待つなんてできない。したくない。やらない。
自分から針の筵に喜んで飛び込んでいくほど、心は強くない。むしろ弱い方だ。
「すぐに戻って来ますから」
勿論戻ってくるつもりなんてない。
何かを言われる前に部屋を飛び出す。後ろから声がかかったような気が……ううん、している。しかしエレーナが立ち止まることはなかった。