29.憂いと当惑
「多分ここにいればリチャード殿下はいらっしゃるわ」
告げれば表情がうって変わり、顔色が良くなるメイリーン。
「そうですか? ならここで待ってます!」
ありがとうございますと頭を下げるメイリーンはふわふわな髪をぴょこぴょこと揺らす。
その際に甘いショートケーキのような匂いが鼻を掠める。
彼女は恋心に気が付かなかった頃のエレーナのようだ。一番楽しくて世界が薔薇色だった時期の。
「私は……これで」
視線をそらしつつその場を逃げるように後にしようと、メイリーンの傍を通り過ぎる。
「待ってください」
「まだ何か?」
「わたし、殿下に尋ねたいことがあるのですが、このような形で言うのはちょっと恥ずかしくて……一緒にいてくれません?」
「……?」
最初、何を言われたのか分からなかった。だから廊下の途中で立ち止まってしまう。
「初めて会った人に頼むことじゃないですよね。でもエレーナ様はリチャード殿下と仲がよろしそうだったので」
メイリーンは頬を掻きながら気恥しそうに首を傾げた。
エレーナは──一瞬皮肉を言われたのかと思った。
(仲が良さそう……? 花嫁ではない私をおちょくってるの?)
メイリーンを凝視するが、そんな風には見えない。純粋に思ったことを言ったのだろうか。それでも彼女の思考と話の主旨が理解できない。
「内容は……な……に?」
聞きたくないのに聞いてしまう。嫌な想像だけが膨らんでいく。頭を占めていく。
「過去に一度だけ助けてもらったお礼を言いたくて……人違いの可能性の方が大きいんですけどね。今日お声を聞いて似ているなって」
手を口元の近くで合わせてふっと恥ずかしそうに表情を緩める。
──本の中の主人公。
ふと浮かんだその単語。まるで本当に御伽噺のストーリーが現実に顔を出してきたかのような。エレーナに見せつけているような。
月光の煌めきをその髪に移したかのような艶やかな銀髪。適度に色づく頬。長い睫毛に包まれた栗色の瞳の美しい少女。
加えて絵本の導入部分に書かれるような、出逢い方。
これらをなんと言うのだろうか。目の前で乙女達の夢が具現化されたかのように感じる。
彼女は人違いかもしれないと言っているけれど、そうは思えなかった。
そのぐらいエレーナは追い詰められていたのだ。
「わたし……今リチャード殿下と顔を合わせたくないの」
精一杯の拒絶だった。だけどメイリーンは軽々とエレーナの築き上げた城壁を越えていく。
「えーと、じゃあ隠れて見ててくれません? 私エレーナさんがいること教えないので!」
頭を下げてくるメイリーン。エレーナは冷ややかな視線を送っていた。
「どうしてそこまで私に聞いてて欲しいの」
薄氷のように薄い膜。割れれば即座に冷たい水へと落ちるくらいゾッとする声。
意味が分からない。隠れてまで人に聞いて欲しいなどと理解の範疇を超えている。
「多分これからもリチャード殿下とは顔を合わせることがあるはずなのですが、今日だけは一人の助けてもらった人──メイリーン・クロフォードとしてお礼を言いたいので」
前半は真剣な表情で、後半は無邪気に言い切られた。
答えて欲しかった理由ははぐらかされてしまった。それが意図的になのか無意識なのかは判断できないが。
立会人はエレーナでなくても大丈夫なはずだ。わざわざ頼む必要性が感じられない。
もし、誰でもいいのであれば、リチャードの側近等に頼めばいいのではないか。むしろそちらの方が簡単に承諾してもらえるだろう。彼らはいつもリチャード殿下の傍に控えていて、何かあれば真っ先に動く人達だから。
そこまで考えて何故か幼馴染のギルベルトの疲れきった顔が、脳裏に浮かんだ。
彼はいつも大変そうだ。繁忙期は王宮に泊まり込みのようで、目の下に濃いクマを作ってリチャードに仕えているのを知っている。そしてエリナがギルベルトの体調を気遣って、栄養バランスの取れた差し入れを届けているとも。
エレーナも部署は違うが何度か父に差し入れを持っていったことがあった。その時見た光景はまさに地獄絵図。
あちらこちらで阿吽絶叫が飛び交っていた。書類が無くなったとか、一週間まともに寝てないとか、それはもう生ける屍のようにただ手を動かす集団と化して。
それを見てしまってからは、なるべく父の働いている部署全員に行き渡るように差し入れを持ってくることにしていた。
「あっどこに隠れます? あのクローゼットの中とかはどうでしょうか」
思考が脱線していたエレーナの腕を、メイリーンは掴まえて中に連れていかれる。
まだ了承していないエレーナを置いてきぼりにして、ペラペラとメイリーンは話す。
開けられたクローゼットは人が入れるほどの空間があり、彼女は本気でエレーナに隠れてもらおうとしているみたいだ。
頬に手を当てて真剣に悩んでいる。
「──御二方飲み物はいかがですか」
開け放たれていた扉から飲み物を持った給仕のメイドが尋ねた。
ここの廊下は舞踏会の会場と厨房を繋いでいるので、会場に運ぶ飲み物だろう。中に人がいるのを知って気を利かせてくれたのかもしれない。
「ありがとう。そこに置いといて下さらない?」
砂漠のように口の中が乾いていたエレーナは、グラスの中で揺れる液体──色からして果実水と推測できるそれにとても興味がそそられた。
「かしこまりました。それでは」
二つグラスをテーブルに置いてメイドは去っていった。
「メイリーン様も……」
グラスを手に取ったエレーナは、もう一個も持とうとした。
ガラスの中で黄金色は波打つ。
「あっ喉は乾いてないので……あとで飲みますからそのまま置いといてください~」
「そう? なら私だけ頂くわね」
口に含むといつもの果実水よりは甘くて濃かった。柑橘系の果実が多く含まれているのだろう。濃厚だが、すっきりとする味わいだ。
(──ってわたし、呑気に飲んでいてはダメじゃない!!! ほんとに何やってるのよ?! ここから立ち去らなきゃならないのに!)
ハッとしたエレーナは、口内に残っていた果実水によって噎せてしまった。