16.大切だから(3)
罪悪感を抱えながらも久しぶりの公爵邸を満喫するエレーナと、彼女の好きなようにさせることにしたリチャード。最初に音を上げたのは案の定リチャードだった。
それは家出を決行して一週間後のことだった。その日はエリナが息子を連れて公爵邸に遊びに来てくれていた。
「本当に可愛いわ!」
頭を撫でれば幼子は嬉しそうに声を上げた。
「ふふっよしよし。あなたのお母様はまだかしらね」
膝の上で抱き抱えながら頬をつつく。ふにふにとした柔らかな感触と赤子特有の日向のような匂いに和む。テーブルに置いていた音の鳴る玩具で遊んでいると、エリナが手洗いから戻ってきた。
彼女は部屋に入ってくるなり生暖かい目でエレーナを見てくる。
「お迎えが来たみたいよ。私はもっと早いと思っていたから、結構持った方じゃないかしら。邪魔になるといけないし、今日はお暇するわね」
エレーナにそっと耳打ちしたエリナは、膝に乗っていた息子を抱き抱えて部屋を出ていく。入れ替わりで入ってきたのは王宮にいるはずのリチャードだ。
彼は一週間ぶりの元気な妻の様子に僅かに表情を柔らかくしたが、直ぐに隠した。
「何用ですか」
「謝りに来た。弁明は聞いてくれるのだろう?」
「…………はい」
すぐに許してはダメだろうと意識して声を冷たくする。が、夫の目元にクマができているのを見てしまって動揺する。
(寝れて……ないのかしら)
彼はすぐ無茶をするのだ。
「レーナ、まず行動を制限した件は私が悪かった。君が無茶をするのではないかと心配で仕方なかったんだ」
「……そう思わせてしまった原因は私にもありますが、この体で自ら無茶なんてしませんよ。守らなければいけない命があるんですもの」
大きく膨らんだお腹を撫でながらエレーナは言った。
「いいや、私が悪い。反省している。今後は君の好きな通りにしていい。だから……」
「だから?」
「──戻ってきて欲しい。目の届くところに居てくれないと不安なんだよ。顔を見たくないようなら寝室を別にしてもいいからせめて王宮内には居てくれ」
懇願するような声に少しだけ自責の念に駆られる。エレーナから距離をとっているのも彼なりの反省の表し方だ。いつもなら近寄ってくる。
「ほんとうにそれでよろしいのですか? 王宮に戻るだけでいいと?」
「うん。護衛をそばに置いておいてくれるのなら、レーナが何をしようとかまわない。私を避けたいなら避けてもいい」
「では避けますよ?」
さらっと返せば、苦渋の決断のように夫の端正な顔が歪む。
「……いや、避けられると私の精神が持たないんだが……」
(どっちなのよ)
エレーナは腕を組み、じっとリチャードを見つめた。
「避けてもいいって言ったのはそちらですよね?」
「……そう言ったが、撤回する」
「ころころと主張が変わって勝手ですね。信用できません」
少しだけ睨むように彼を見るが、すっかりやつれた姿を見ると、それ以上責める気にはなれなかった。
(もうっ本当に無茶ばっかりして……)
リチャードがここまで疲れ果てるほど心配していたのは分かっている。エレーナのことになると、彼はいつも過保護で少しのことでも動揺するのだ。完璧な王子殿下の唯一の弱みは自分なのだと、エレーナはもう知っている。
「……リー様」
「……どうした?」
「きちんとお食事を取られていますか?」
リチャードは目をそらした。
「食事の時間は……政務が立て込んでいて……」
「つまり食べられていないんですね?」
「……」
何かを誤魔化そうとする夫に、エレーナはため息をついた。
「私を連れ戻しに来る前に、まずご自身の健康を気にしてください。でないと、リー様が体調を崩されるのではないかと不安になってしまいます。この時期に心配事を抱えさせないでくださいな」
「レーナ」
「毎日毎日、私にあーんなにも食べなさいと言ってきたのは誰ですか? まず自分を大事にしてください」
そう言って、エレーナは彼に近づいて手を取った。細い指で彼の大きな手を包み込み、そっと握る。
「……わかった。君が戻ってくるならきちんと昼食の時間を取ろう」
「本当ですか?」
「本当だ」
彼は少しだけ微笑み、おそるおそるエレーナの手をぎゅっと握り返した。
「だから……帰ってきてくれ」
(さっきからそれしか言わないわ)
エレーナは小さく笑い、頷いた。
「愛しの旦那様は私が居なくなると駄目みたいなので戻りましょう。でも、私の望みはちゃんと叶えてもらいますよ? そもそもこの喧嘩の発端は、お腹の子が生まれたあとの養育方針についてです。この件のリー様の提案は却下ということでいいですよね?」
「…………」
「私の好きにしていいって言いましたよね?」
語気を強めて尋ねる。
「…………レーナ、私がこの世で一番大切なのは君なんだ。レーナの望みは全て叶えてあげたいけれど、それでもし君の負担が重くなり、体調を崩すようなことになったらそちらの方が耐え難い。ここは私も譲れ──」
「──リー様は嘘つきですか? ならもう少し喧嘩は続行ということで私は王宮には戻りません」
(万が一に備えてリー様が王宮のお医者様をここに派遣しているもの。リリアンやメイリーンも見守ってくれているし、出かける訳ではないから大丈夫だわ)
すっと握っていた手を離そうとするとリチャードは慌てる。
「いや! レーナの案にしよう。ただ、もし、もしもだ。肥立ちが悪い場合は乳母に全て任せると約束してくれるね?」
わずか数秒。彼はころりと意見を変えた。
「はい、それでかまいません」
こうしてエレーナとリチャードの初めての喧嘩は幕を閉じた。
──とはいえ、エレーナが王宮に戻ってきたことで歯止めが効かなくなったリチャードによって、結局喧嘩前と同じ状態に戻るのは言うまでもない。