15.愛しい宝物(1)
「あ、ははうえー!」
その声に反応して振り返ると、まだおぼつかない足取りでこちらに駆けてくる小さな姿があった。
「あらあら乳母はどこに行ったの?」
満面の笑みで抱きついてきた我が子を優しく抱き上げ、柔らかな頬にチュッと口付けした。くすぐったそうに目を細めたキースはエレーナにキスを返す。
「くるよ。ほら」
見れば、曲がり角から慌てた様子の乳母が現れる。
「申し訳ございません。少し目を離した隙に王妃様を探しに出られたようで……」
ようやくキースに追いついた乳母は肩で息をしながら弁明する。
「キース、乳母の話はほんとう?」
「うっ、ほ、ほんとう……です」
視線を逸らしながらもキースは答える。
「困らせてはいけないといつも教えているでしょう」
無理やり視線を合わせ、眉間に皺を寄せて叱れば我が子は瞳に涙をためる。
「だっ、だってぇ。侍女たちが……ははうえが今、廊下にいるって。休憩だからお菓子をさしいれましょうって」
キースは説明しながらぽろぽろと涙をこぼす。エレーナはそれをハンカチで拭った。
「だからって勝手に部屋から出てはダメよ」
「でもぉ、ははうえ、最近おいそがしくて……見かけても急いでて、きゅうけいなら、お邪魔じゃないって……うぅ」
段々と涙声に変わり始める。
「しつむ、だけじゃなくて、ぼく、のこともかまってぇ」
そこで堰を切ったようにびぇぇっとキースは声を上げて泣き始めた。
「リリアン」
呼べば、後ろに控えていたリリアンはエレーナの言いたいことを汲み取り、即答する。
「──二日です。お眠りになっている時を外したら三日日です」
「そんなに?」
「はい」
絶句するエレーナに対して、リリアンが畳み掛ける。
「申し上げにくいのですが……陛下もここのところお忙しいようですので、キース殿下がお二人に会った最後は……」
もうすぐ四歳になる我が子はまだまだ甘えたい盛り。普段だってエレーナが気が付かないだけで沢山の我慢を強いているはずなのに。
(…………なんてことをしているのかしら! 母親失格だわ)
ここのところ忙しくて中々息子と過ごせず、せめてもと我が子の寝顔を見に行くことはしていたが、キースからしてみれば三日会ってない。酷い親だ。
己の失態に心が沈んでいく。何よりも、可愛い我が子を悲しませてしまったことに後悔が募る。
(これは私の過ちね。寂しいなんて当たり前じゃない。なのに叱ってしまうなんて……)
「ごめんなさい。お母様が悪かったわ」
泣き止まないキースはぐりぐりとエレーナの肩に顔を擦り付ける。鼻水を啜る音から多分ドレスはびちょびちょだろう。
「お願い、泣き止んで……って言えないわね。私のせいだもの。どうしましょう」
オロオロとキースを抱えながらエレーナは右往左往する。その間にも幼い王子殿下の泣き声を聞き付けた文官達や侍女が、何事かと集まり始めていた。
「王妃様、取り敢えずキース殿下のお部屋に」
見かねた乳母が提案する。
「そうね。ここにいては他の者にも迷惑をかけるわ」
キースをあやしながら部屋に移動し、ソファに腰掛けた。彼はギュッとエレーナの服を握り、離れようとしない。
「メイリーン」
「はい」
どこからとも無く現れたメイリーンがエレーナの前に立つ。
「ギルベルトかリチャードに火急の案件があるか確認してきて。それと、ないようなら今日の執務は全部明日以降にずらすよう伝えて」
「かしこまりました」
軽く頭を下げるとメイリーンは部屋を出ていき、入れ替わりでワゴンを引くリリアンが入ってくる。
それを横目に見ながら、エレーナは顔をあげない息子に声をかける。
「キース」
「…………」
「──キース」
「…………」
聞こえてはいるはずなのに返答はない。
お茶を注いだリリアンが極力音を立てずに部屋を出ていき、二人っきりになったのを見計らって、エレーナは再度声をかけることにした。
「私の可愛い坊や、お顔を見せて」
「うっ」
こういう言い方をすると反応が返ってくることを知っていた。我ながら狡いと思うが、致し方ない。
渋々上げたキースの顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。ふるふると唇を震わせ、留めなく涙が伝い落ちている。
それを指で拭いながら口から出たのは謝罪の言葉だった。
「ごめんね」
エレーナの謝罪に息子はくしゃりと表情を崩した。