13.初めての遠出(3)
「早く医者を」
「もう遣いを出しました」
そんな切羽詰まった声が聞こえてきて。エレーナはケホケホと激しく咳き込みながら一時的に意識を取り戻した。
「レーナ」
大好きな声が耳に届く。
「……っ」
名に反応する代わりにエレーナは咳き込む。そのたびに吸い込んでいた水が口腔内から溢れてきた。
エレーナはリチャードに抱き抱えられているようだった。ぼやける視界にはぐっしょりと濡れたドレスに、前髪からはぽたぽたと水が滴り落ちてくる。
(さむい)
全身びしょ濡れの身体は体温を奪われており、ぶるりと震えると上からふわふわな毛布のようなものをかけられた。
「これしかなくてごめん。もうすぐ離宮に着くよ。着いたら温めてあげられるから」
どうやら自分は助けられたようだ。こくんと小さく頷いてエレーナの意識はまた遠のいた。
その後のことはあまりよく覚えていなかった。離宮に着いたエレーナは先に知らせを受け、待ち構えていたリリアン達によってすぐに着替えさせられ、火を熾した暖炉で温められた部屋に寝かされた。
そして水に落ちた影響か、酷い風邪をひいてしまい高熱に魘されて朦朧とした中、何度か目を覚まし、その度にリチャード達に話しかけられたらしい。
ようやくはっきりと意識を取り戻したのは湖に落ちて溺れ死にそうになってから三日後のこと。
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
エレーナは三日三晩自分のそばを離れず、メイリーン達と共に付きっきりで看病してくれていたリチャードに謝罪の言葉を述べていた。
(誘拐事件で魘されていたのを知っていたのに。私、またリー様のトラウマを掘り起こしてしまったわ)
ちらりと夫の顔を見る。彼の目の下には隠しようもないほど濃いクマができていて。メイリーンが教えてくれたことには、この三日間一睡もしてないらしい。
「それと、助けていただきありがとうございます。ただ、護衛の方も他の小舟に乗っておりましたし、リー様が自ら湖の中に入るなんて……下手したら私と一緒に溺れてしまいます」
意識を手放すその瞬間、手首を掴んで引きあげてくれたのはリチャードだった。
命の恩人かつ夫に対して言うべきではないが、彼は王太子なのだ。王太子妃のエレーナは替えがきくが、王太子はリチャードしかなれない。
救助は護衛に任せた方が良いし、護衛の方々も王太子が自ら湖に飛び込むなんて肝を冷やしたと思う。
「私のために命を危険に晒すのはやめてください」
妻として、愛する人であるリチャードが自分を助けるために湖に飛び込み、共に溺れる可能性があっただけでも心臓が冷えていく心地がする。
そんな思いから伝えたのに、リチャードは腕を組みながら不機嫌そうに口を歪める。
「レーナは私の心を君がどれほど占めているか分かってないみたいだね」
リチャードは寝台の中で上半身だけ起こしたエレーナの頬を撫でる。
「そもそも、レーナがいない人生なんて死んだも同然だ。飛び込まない選択肢はない」
そう言って存在を確かめるように強く抱き締められる。
「もう二度と飛ばされた帽子に手を伸ばさないで。わかったね?」
「それはちょっと……」
言葉を濁すと彼は眉間に皺を寄せる。
「何故」
「……リー様からいただいた私の大切な宝物ですもの。咄嗟に身体が動いてしまったのです。だから今後も同じことが起きた場合、きっと手を伸ばしてしまうでしょうし、約束できません」
「帽子なんていくらでも贈ってあげるよ」
「そういう問題ではないのです!」
むうと唇を尖らせる。
「リー様が私と同じ立場だったら、手を伸ばさないのですか? 違うでしょう」
目の前の彼が心底自分のことを愛してくれているのはもう恥ずかしいくらいに身をもって知っている。
エレーナが彼からの贈り物を大切にするように、彼もまた、エレーナが贈った物を家宝のように扱っているのだ。
「……反論できないね。だが、私が何よりも優先するのはレーナだよ。レーナさえ隣にいてくれれば他に何もいらない」
するりと手を絡ませてきて甲に唇が触れる。優しい、けれども熱を持った眼差しにドキリとするが、すぐに鋭さを増した。
「当分、小舟に乗るのは禁止だから。もちろん、水辺に近づくのもいけない。王宮に戻るまで離宮から出かけず、安静に過ごすように」
「…………はい」
まだ王都に帰るまでは日数があったので、医者の許可が下りたらノルフィアナを観光したかった。しかし、こればかりは仕方ないだろう。
(私が落ちたのが悪いし、心配も沢山かけてしまったもの)
そうして大人しく離宮の中で過ごして王都に戻ったのだが。王宮は王宮でエレーナが溺れたという手紙だけ受け取っていたミュリエルが、今か今かと待ち構えていて。
しばらくの間、何かしようとする度にリチャードと義母であるミュリエルが代わる代わる全て終わらせてしまう。
加えて、医者からお墨付きを得て全快しても過保護な二人に、エレーナは自分の身を危険に晒す真似は今後絶対にしないと再度固く誓った。