09.ゆるゆる溶けて
エレーナはドレスの裾を軽く摘み、くるりとその場で一度回った。なめらかな光沢のある生地がふわりと空気をはらんで少しだけ地面から浮く。
「……リー様はどれが似合うと思いますか?」
こちらをじっと見ている婚約者の視線にドキドキしながら尋ねる。
「──全部似合っているよ。レーナに似合わないドレスはないから、君が着たいものにすればいいよ」
さらりと表情を変えずに即答され、まだ彼からの言葉に慣れないエレーナは頬を紅色に染めた。
エレーナが今、試着しているのは結婚式で着るウェディングドレス。今日は王家御用達の針子が王宮に呼ばれ、ドレスを決める手筈だった。
部屋の中に入った時には純白の生地で埋め尽くされていた。試着して決めると言っても、せいぜい十数着だ。だが、ここにあったのはそれをゆうに超える数で。圧倒されてしまった。
朝早くから、昼食を食べて日が傾き始めている今まで、エレーナは促されるままにウェディングドレスを着ている。
「そ、それでは決められないです……」
出来れば彼が一番気に入ってくれるドレスにしたい──その思いから聞いたのに、全部似合っているという返答では困ってしまう。
火照った顔を見られないよう、俯いてしまったエレーナにリチャードは言う。
「時間はまだあるから迷えばいいよ」
「それはありがたいですが、そもそもこ、こんな豪華で…………費用も…………」
ウェディングドレスだけでなく、ネックレスやティアラ等も最高品質の物が用意されていて。エレーナはくらくらしてしまう。
家門が傾くは無いにせよ、ものすごい金貨が飛んでいきそうなのだ。
「気にしなくて平気だよ。私も、母上も、予算の上限なんて考えてないから。そもそも王太子の婚儀なのにお金を使わないでどうする」
リチャードはエレーナの心配を一蹴した。
物欲がほぼ無いため、リチャード個人に配分される予算はほぼ手を付けていなかった。ミュリエルもミュリエルでエレーナを愛でる為に貯めていたお金が公爵家数年分の年収くらい貯まっている。
国家予算として結婚の儀式に振り分けられるお金もあるのだから何ら問題は無いのだ。
(そんなこと言われても)
──目の前に広がるのは白いドレスの海。
年頃の令嬢ならば浮き立つような流行りのドレスばかり並べられていた。中にはこれから流行るであろう型のドレスも端に置いてある。
一着しか着ることは叶わないのに、それしては選択肢が多すぎる。しかも、エレーナが着用するのはこれらの既製品を参考にしたオーダーメイドのウェディングドレスだ。細やかなところまで指定が可能なのだが、それはヴィオレッタやミュリエルに任せることにしていた。
だからエレーナは大元のデザインを決めるだけでいいのに中々決まらない。
「本当に来て欲しいドレスとか無いのですか?」
リチャードに問えば、ソファに座っていた彼は立ち上がりエレーナの手を取る。
「……強いて言うなら露出度が低いものがいい」
「どうして?」
「──これ以上レーナの綺麗な肌で他の男が見蕩れるのは嫌だ」
眉根を寄せてそんなことを言うのでエレーナは一瞬固まってしまう。
「前々からそうだけどレーナは少し抜けているからね。舞踏会などでドレス姿の君を見る度に、それを凝視する他の男が不快で仕方なかった」
衝撃の告白に戸惑いを隠せない。だが、腑に落ちる部分があった。
「だから私にいつも、もっと肌が隠れるドレスを着なさいと仰っていたのですか……?」
あれは自分にはそういうドレスが似合わないからだと勝手に思い込んでいた。それにしては夜会用では普通くらいの露出度のドレスでも、何かにつけて彼に言われていた気がするが。
リチャードはエレーナの横髪を耳にかけてあげた。
「そうだよ。婚約者でも何でもないのに口を出さずにはいられなかったんだ」
ちゅっと頬に軽いキスをした。
「ただ、反対に私の妻はこれほど美しくて可愛らしい女性なのだと周りに示したくもある。どちらも私の我儘だ。レーナに押し付けるつもりはないよ」
優しく微笑みながら離れていく。
「花嫁姿のレーナは無条件で可愛い。どのドレスも見てみたいし、そんな君を妻に迎えられる私は世界でいちばんの幸せ者だよ」
いいようにまとめられてしまった。
(そんなのずるい)
最終的な決定権はエレーナに委ねるところ。本当に卑怯だと思う。
「……私はリーさまの我儘を叶えたいです」
エレーナには「いいえ」の選択は元から存在しないのだ。
「あっでもこのフリルは譲れませんし、露出度が低いものを……と仰られましたが腕はまだしも、肩は出したいです」
最近の流行であり、オフショルダーはエレーナの好きなデザインなのだ。
勢いよく主張すればリチャードは微笑を浮かべ、耳元で囁いた。
「そうだね。私の天使はフリルたっぷりの方が似合うよ」
「ひゃうっ」
吐息がかかりこそばゆい。最近自覚したことなのだが、エレーナは耳が弱い。近くで囁かれるともれなく変な声が出てしまう。
恥ずかしくて口元を押さえると、その手を取られてしまう。そうして左の薬指、嵌った婚約指輪に彼の唇が触れる。
その仕草はとても優しくて。なのに、彼の目はエレーナをからかうように細められた。
「これだけで赤面するレーナは妻になったらどうなるんだろうね」
「……いじわるです……」
多分ドキドキし過ぎて心臓が持たない。
もうすぐ結婚式なのに、本当にどうしようか。対策は何も立てられていない。
「わたし……ばかり」
拗ねたような声になってしまう。
とはいえ、こんなことをリチャードにされても嫌ではないのだ。むしろ嬉しく感じてしまい、それが恥ずかしくもある。
ふるふる震える睫毛は濡れて、金の瞳は潤む。
「嫌かな」
「……好きな人からのを嫌いだと?」
「なら、もっとしてもいい?」
こくんと頷けば、リチャードはまぶたにも落とす。
「ひぅっ」
初めての箇所にエレーナの体は過敏に反応した。力が抜けて座り込んでしまいそうなところを、リチャードが腰に手を回して支える。
そうして今度は唇を奪われる。
「んっ」
何度もくちびるが重なって思考がとろとろ溶けていく。取られていた左手が指を絡める繋ぎ方になり、よりいっそう距離が近づく。
早鐘を打つ鼓動を気にする暇もなく、強引だけど甘やかな口づけに意識を全て持ってかれた。
どのくらい経ったのだろうか。エレーナは息も絶え絶えに紡ぐ。
「リーさま……も……もう、……や」
空いていた右手でぎゅうっと彼のシャツを握る。のぼせたように全身が熱く、上手く頭が回らない。
(酸欠でくらくらする……)
そこでようやくずっと塞がれていた唇が解放された。荒い息を吐きながらエレーナは言う。
「……口づけはいやじゃないけど、いったんおわりに……して、ください」
「そんな表情反則だと思うが、元はと言えば私が悪いからね」
「ひゃっ」
リチャードはエレーナを抱き抱え、ソファに優しく下ろした。
「しばらく休むといいよ。時間を置いて針子たちを呼んでくる」
「はり……こ? あっ」
さあああっとエレーナは青ざめる。
(他の人がいたのに……!!! 私っ)
途中からリチャードしか目に入ってなかった。
「ああ、安心して。最初の方で退出していたよ」
でなければリチャードだってあそこまでしない。
それでも、最初は見られていたのである。エレーナはソファに顔を埋め、耳を塞いで己の行動を恥じる。
(うぅむり)
結局、エレーナは羞恥心から戻ってきた針子達の顔を最後まで見られなかった。