06.私だけが知っている(1)
「リー様」
「…………」
「──リチャード殿下」
書簡を読み込んでいたリチャードは急に頬を掴まれ、グッと上に持ち上げられた。
「もうっ! 集中しすぎです」
「レーナ」
ぱちぱちと瞬きをして彼はこめかみを押える。
「もう約束の時間だった?」
リチャードに会いに来たエレーナは、一瞬むむっと険しい顔をした。が、直ぐに表情を取り繕いにっこり笑う。
「ええ、なかなかお見えにならないのでお迎えにあがりました。もしかして忘れていたのですか?」
「いや、覚えていたんだけどな……ごめん私の体内時計と現実の時間が合ってなかったみたいだ」
時計を見ると約束の時間から一時間経っていた。
(誰も教えてくれなかったのか)
がらんとした執務室。ギルベルトは財務を担当している部署に赴き、他の者はまた違う部署に出向いていたり、休憩をとっていたりで散り散りになっていた。
エレーナとの約束に遅刻して一時間も待たせてしまった挙句に、迎えに来てもらうというのは何たる失態だろうか。
普段なら絶対にしない失敗に再度項垂れる。
彼女の様子を窺うと、怒ってはいないようだ。ただ、目が忙しなくリチャードの顔色を観察しているように感じた。
「リー様」
「ん?」
執務室に備え付けられたソファに、一旦腰を落ち着かせたエレーナは、人差し指を立てる。
「──遅れた代わりに、私のお願いをひとつ叶えてくれませんか」
「何かな」
「リー様のお部屋を見せてくれませんか?」
「………………私の?」
「はい、ダメでしょうか」
珍しく、彼はきょとんと瞬きをして万年筆をおいた。
「見せる分には構わないけど、レーナが興味を抱きそうな物は何も……」
「興味とかそういう問題ではないので。良いのか悪いのかどちらかで答えてください」
困惑気味のリチャードの言葉を遮れば、彼は即答する。
「良いよ。レーナの好きなように」
「では決まりですね。連れて行ってください」
ぱっと立ち上がったエレーナは、リチャードの腕に自分の腕を絡めてぐいぐいドアの方へ向かおうとする。
「ああでも待って、中途半端なこの書類だけ」
珍しく、そんなことを言うものだから。エレーナは強引に執務机からリチャードを引き剥がす。
「ダメです。執務は終わりですよ」
「だが、これ────」
エレーナはリチャードの両頬を手で包み込んだ。そうしてきゅっと結んだ唇を開く。
「休憩をきちんと取るという私との約束お忘れで? その書類はぜーんぶ片付けてください。もしくはギルベルトに丸投げしてください」
(ギルベルト、ごめんね)
心の中でエレーナは謝る。だが、こちらも譲れないのだ。
◇◇◇
「体調が悪いですよね」
開口一番にエレーナは確信を滲ませキッパリ言いきった。
部屋に入ってリチャードをソファに強引に座らせたエレーナは、腰に手を当て、正面で仁王立ちしている。
想定していなかった問いにリチャードの思考が数秒止まった。
「そんなことないよ。もし、レーナの言った通りなら横になっているだろう?」
「いいえ、残念ながらリー様がお休みになられるなんて有り得ませんから。その言葉には騙されません」
むうっと頬をリスのようにふくらませ、彼の隣に腰掛ける。
「寝てください。目を瞑ったらきっと直ぐに眠くなりますよ」
エレーナはそう言うと、リチャードの瞳を手で覆う。
「休む暇がないほど、色んなものを背負われているから──いつもと同じだと錯覚、いや脳が気付かぬ振りをしているだけです」
「…………」
「ほら、深呼吸してください。さーん、にー、いーち」
カウントと共に息を吐く。するとプツンと緊張の糸が切れたかのように、リチャードは酷いだるさを感じ始めた。
(まさか。さっきまでこんな)
エレーナの言葉が、元気だという錯覚を本当に解いたかのような。
鉛のように体が重く、目がぐるぐると回る。しまいには頭が徐々に痛んできて。
これは否定しようがなかった。
(…………体調悪いな)
リチャードはすんなり認めた。そして限界だった。
一度認めてしまうとそれまでの分も倍になって降り掛かってきたのだ。
「ごめん。レーナの言う通りみたいだ。──……ど……わか」
「自覚しました? なら早く寝台に──り、リー様? 今なんて仰っ……まって、それはダメですよ!?」
あろうことかリチャードの体がこちらに傾いてくるではないか。
「寝るなら、きちんと寝台で……ってんん動かないし! きゃっ!」
懸命に支えようとしたが重さに耐えきれず、エレーナもリチャードの背中に手を回した状態でソファに沈む。彼の頭がエレーナの肩の辺りにあり、髪が耳や首筋で擦れてくすぐったかった。
(これはまずい。非常にまずいわ)
エレーナの視界は真っ白な天井と端にちらちら映るさらさらな金髪で占められていた。ぴくりとも彼は動かない。
「……限界だったのですね。私の声聞こえてます?」
返答はない。
(どうしよう)
二人っきりの室内に、婚約者とはいえ、男性が覆い被さっているこの状態を他人に見られたら極めてまずいのではないだろうか。
それに騎士ではないはずなのに体を鍛えているのか、はたまた男性は全員こうなのか、リチャードの体が結構重い。華奢なエレーナは息もしずらく、押し潰されてしまいそうだった。
「ギルベルト!!! 居るわよね?」
現状を打開するために、取り敢えず部屋の外に控えているだろう幼馴染兼リチャードの側近の名前を呼ぶ。
先程廊下で他部署から戻ってくるギルベルトに遭遇し、そのまま着いてくるようエレーナがお願いしたので、控えているはずなのである。
「はいはいってエレーナ、何処に居るんだ?」
ドアの外から顔を出したギルベルトはきょろきょろ室内を見渡す。
「ここ! ソファ! 早く来て!」
声を大きく上げてかろうじて動く左手を上にあげる。
「何でソファで横に────っ!?」
ギルベルトはエレーナに覆い被さるように突っ伏しているリチャードを見て、仰天した。
「エレーナ、殿下に何したのさ」
「何もしてない! それよりもリー様の体調が悪いみたいなの。寝台に移してあげて欲しいのと早くしてくれないと私が潰されちゃう」
「それは大変だ」
ギルベルトは手加減なしにベリっとエレーナからリチャードを引き剥がす。呼吸が楽になったエレーナは、酸欠やら何やらで頬を紅潮させたままため息をついた。
そうしてそっとリチャードの額に触れれば、温石のように熱を持っていて眉をひそめる。
慌ててソファから立ち上がり、リチャードを横に寝かせる。
「熱があるみたい。先日、体調を崩すからきちんとお休みをとってくださいねって言ったばかりなのに」
再三お願いしたところでリチャードは王族且つ王太子なのだ。常に多忙を極め、エレーナと約束しても破るに決まっていたのだが。
仕方の無いことだと分かっていても、婚約者としては体調を崩す前に休んで欲しいと考えてしまう。
(これは無茶をしてしまう殿下も悪いけれど……)
もうひとつの根源がこの部屋にはあった。
「……どうして私を睨むんだ。殿下の自己責任じゃないか」
「だって、こんなわかりやすいくらい体調を崩しているのにギルベルトが休ませなかったから」
「…………わかりやすい?」
ギルベルトは首を傾げた。彼が疑問を持っていることに気がつかないエレーナは、ぷんぷん怒りながら話を続ける。
「ええそうよ。一目見たときに体調が悪いんだなって分かったもの! 主君の体調管理は臣下の役目でしょうに」
いつもよりちょっと反応が鈍く、頬が火照っていることにエレーナは気が付いていたのだった。
加えて自分との約束に、急に入った会議などとかではなく遅れてくることは、ありえないと確信していた。
だからお茶をするのではなく、自室に連れて行ってとねだったのだ。執務室にも簡易ベッドは置かれているが、やはり慣れた寝具の方が体にいいはずである。
それに、リチャードは執務室だと人の目があるので寝てくれないと考えた上での行動だった。
「いや、どう考えても気が付かないよ。エレーナがリチャード殿下のことを熟知しすぎなんだよ」
そうして、ギルベルトは怒るエレーナに対して突っ込みたくなる。どうしてあんなに分かりやすかった主の慕う人が己だと気が付かず、全く顔に出ていない体調不良を見分けるのかと。普通逆だろうと。
長年リチャードのそばで働いていて、他の同僚達よりは考えている事や感情を察せると自負している。しかし今回の件は本当に分からなかった。
それほどリチャードが普通に執務をこなしていたし、捌く速さも落ちていなかったのだった。
なのに目の前の彼女は一瞬で見抜き、寝かせたらしい。ギルベルトからしたら魔法を使ったようにしか見えなかった。
(主に関してはエレーナに敵うものはいないようだ)
反対に、エレーナに関してはリチャードに敵うものはいないのだろう。主の愛は執着を帯びるくらいに強い。
そう感心している中、エレーナがグイッとギルベルトの裾を引っ張った。
「何ぼーっとしているの? 早くリー様を寝台に寝かせてあげて。ソファはあまり体に良くないわ」
「私が?」
「あなた以外に誰がいるというの?」
(わざわざほかの場所にいる騎士を連れてくるより、側近のギルベルトが運んだ方がいいわ)
「運んでもいいけど、一度殿下に聞いた方がいい」
「…………起きるかしら」
(先程よりも顔色が悪いのよね)
心做しか息も荒い。エレーナはダメ元でリチャードに話しかける。もしかしたら彼は起きて、自分で寝台に移動するかもしれない。
「リー様」
耳元で囁くと、今回はぴくりと頭が動いた。微かに瞳が開く。
「体がだるいと思いますが、ご移動できますか? ソファは寝心地が悪いですし、他の者が看病する際にやりにくいですから。動けないようならギルベルトがリー様を運びます」
「………………ぜったいに、運ばれるのだけは嫌だ」
数秒遅れてリチャードは起き上がった。頭が痛いのか、顔を顰めて寝台の方に移動する。エレーナとギルベルトは両側から支え、無事に寝台に横になった。
エレーナはシーツを手繰り寄せて腕に抱え込み、空気を含ませてから彼の上にかけてあげた。
「私、王宮医を呼んでくるわ。ギルベルトはリー様のそばに居てあげて」
パタパタと音を立てて医務室へと急ぎ、王宮医を部屋に連れてくる。その際、偶然近くにいた王妃付きの侍女にリチャードが熱を出して倒れた事を伝えて欲しいと言付ける。
「今のところ熱と頭痛以外の症状が出ていませんから過労からくるものでしょうね」
リチャードが眠った状態で診察した王宮医はそう診断した。
もっと重い病だったらと、悪い想像をしてしまったのでとりあえずは安心だ。
ゆっくり寝て体調を取り戻せば三日ほどで完全回復するだろう。
ほっと胸に手を当てて安堵しているエレーナにちらりと目をやり、王宮医は話を続ける。
「安心しているところ申し上げにくいのですが、殿下の場合慢性的な睡眠不足と疲労がたたって通常よりも高熱を出されているようです。本来ならここまで熱は上がりません。ご無理をなさっておられたようですね」
「!」
一変してエレーナはギルベルトに厳しい視線を送る。
「だから私を睨まないで。矛先は殿下に向けて」
「殿下には体調が回復してからしつこいくらい伝えるわ。今はギルベルトに言いたいの」
エレーナはギルベルトの脇腹をつねる。これはエリナから聞いた彼の弱点だった。
「悪かったって! 今度からは体調にも目を配るよ。気づかないならまだしも、気づいているのに気遣わない阿呆で最低な臣下じゃないから!」
あっさりとギルベルトは折れた。
言い争っている間に王宮医は薬の調合を終える。
「殿下、薬ですお飲みください」
王宮医がリチャードの肩を叩くと微かに瞳を開けた。
「くすり……か?」
「はい。解熱作用のある薬草を煎じ、粉末にして、再度水に溶かしたものです。これで高熱は治まるはずですよ」
どろどろとした緑の液体。見るからに美味しそうではないが、リチャードは顔色を変えずに飲み干した。
その飲みっぷりに感心しつつ、エレーナの心はざわめく。
「先生、薬の量……多すぎではありませんか?」
自分が熱を出した時の二倍の分量はあった。薬は便利だが、分量を間違えれば毒にもなりうる。こんな素人のエレーナより専門家である王宮医の方が理解していると知っていても、問わずにはいられなかった。
「エレーナ様、殿下は他の者と違って毒の耐性がおありです。毒の材料と薬の材料は時として同じ植物が使用されるので、通常と同じ量では効きにくいのですよ」
「…………慣れるのも弊害があるのですね」
「そうですね。ただ、悪い点よりも良い点の方が多いですから。特に殿下の場合は」
では、と王宮医は診察を終えて医務室に戻っていく。
「じゃあ私も残ってる書類捌いてくるから。また迎えに来るよ」
「うん」
後を追うようにギルベルトも持ち場──執務室に戻ってしまう。
ぽつんと一人部屋に取り残されたエレーナは、寝台の横に椅子を持っていき、そこに座った。
そしてそっとリチャードの額を撫でた。
(男の人なのに綺麗な肌)
ハリとツヤがあって、毎日時間をかけて手入れしているエレーナの肌よりもスベスベしていそうだ。
ようやくひと息つけたエレーナは、リチャードが倒れ込む寸前──途切れ途切れになりながら言った言葉を思い出す。