03.彼女の知らないところで
これはリチャードとエレーナが結ばれる約一年前の舞踏会のことである。
──リチャードはイラついていた。
盆を持った給仕が横を通ろうとしていたので、いささか乱暴に飲み物を手に取り、一気に飲み干す。
空になったグラスの縁を爪で弾きながら視線はある一点を外さない。
(あの子息、さっさとレーナから離れろ)
目の前、と言っても結構離れているのだが、壁近くの場所でエレーナが貴族子息にダンスに誘われているのを、リチャードは視界に捉えていたのだ。
エレーナは曖昧な笑みを浮かべながら差し出された手を取ろうか悩んでいる。このまま行けば優しい彼女のことだ。流される形でダンスを踊るだろう。
それがリチャードには気に食わない。
側近であるギルベルトや従兄弟のアーネストがエレーナと踊るならまだしも、繋がりが何も無く、信用ならない男なのがどうしても許せない。
ゆえにリチャードは勝手にイラついて、勝手に嫉妬している。
今すぐにでも駆けつけて妨害したいところだが、彼女はそんなことを望んでいないだろうし、したら怒られるのが目に見えている。
デビュタントこそファーストダンスをもぎ取ったが、それ以降は踊ることも叶わず、遠目に見る彼女は年々美しい淑女に成長していく。
可愛いだけであった微笑みは優艶さが増し、あどけなさを残しつつも女性としての色気が溢れている。
気が付いていないだろうが、周りにいる子息達もチラチラと彼女に視線を送っていていた。
大抵は彼女の友人であるエリナ嬢が牽制しているので視線と比べれば近寄ろうとする者は少ない。
だが、舞踏会が開かれる度にエレーナの元には縁談が舞い込んでいることをリチャードは知っている。恐らく声をかけるよりも手紙で求婚した方がやりやすいからだろう。
幸か不幸かエレーナは縁談を受けるような素振りを見せていないが、いつ気が変わるか不安になる。
急に現れた者に心を奪われてしまうかもしれないし、はたまた流されるように婚約してしまうかもしれない。
だからリチャードはエレーナの知らないところで何度も婚約話をさりげなく妨害している。
最近ではルイス公爵がリチャードの行いに気が付き、苦言を呈された他、エルドレッドには「姉上が可哀想なのでやめてください。花嫁に欲しいなら早く求婚してください」と言われてしまった。
そんなことを考えているうちに、エレーナはどうするか決めたらしい。出された手に己の手を重ねようとして──
(ああ嫌だ)
我慢ならず、殺気が漏れる。
感情のままに睨みつければ、悪寒がしたのかエレーナを誘っていた子息が反射的に手を引っこめた。
エレーナはそれを不思議そうにしたが、子息はそそくさと離れていった。
(文官だったな、あの部署にはさりげなく仕事量増やしてやろう)
所属を割り出したリチャードは当てつけのようにそう考えていた。
「殿下、嫉妬深い男は嫌われますよ」
「うるさい」
見飽きた光景にギルベルトは憐れむように主の顔を見る。
「いや~この手のことは私の方が上手いですから。どうです? アドバイス致しましょうか」
「お前のはいらん」
「またまた~聞いて損はないかもしれませんよ~?」
いつもは上に立つ主だが、恋愛面ではギルベルトよりも下だ。なので、彼は調子に乗ってしまったのだ。
二倍になって返って来ることを忘れて。
「────決めた。お前の結婚式を欠席する。まだ出欠席の手紙は出ていないから、朝一番で返事が公爵の手元に届くよう手配してやる」
そう言ってリチャードは背を壁から離して歩き始めた。
「そ、それは困りますよ! 私の役職知ってて言います?!」
主ならやりかねないと思ったギルベルトはあわて始めた。身体を使って会場の外に出ようとするリチャードを止めにかかる。
「来てもらわないと我が公爵家の尊厳に関わりますから! 父に叱られます」
「私には関係ない。お前の地位に就きたい優秀な連中は他にもいる」
ギルベルトとエリナの結婚式は三ヶ月後に行われる。仮にも自分はリチャード殿下の最側近だと自他ともに認められているのだ。それなのに主であるリチャードが側近の結婚式に現れないとなると……。
(信用されてない扱いに落されてしまう。こんなに頑張ってるのに!)
朝早くから夜遅くまで書類を捌き、休日でもリチャードに呼ばれたら駆けつける。これ以上ないほど仕えていると思う。
「──というのは冗談さ」
纏っていた冷気が分散する。
未だ含んだ笑みを見せているリチャードは、再び給仕からワイングラスを受け取った。
(いや、絶対本気だった)
ギルベルトは心の中で全力で突っ込む。
「冗談には取れません」
「そうか。なら、エレーナと踊ってきて」
グラスを揺らしシャンデリアの光に当てながら、ギルベルトを前に出す。
「またですか。殿下が踊ればいいじゃないですか……」
ギルベルトはリチャードの代わりのように毎回エレーナと踊っている。彼女とは長い付き合いであるし、ダンスが苦手でもないから別にそれは良いのだが……。
(あまり距離が近すぎると私にも嫉妬するじゃないですか……もう!)
他の子息に比べればマシなのだが、基本姿勢である腰に手を回すだけで顔を顰め、かといって完璧に踊らないと主に怒られる。プレッシャーから身体が押し潰されそうになるのだ。やめて欲しい。
リチャードはグイッとワインを煽る。
「彼女が自ら来てくれれば……喜んでその手を取るのに」
来てくれないので願望でしかない。エレーナはいつも壁の花か、誘われた数人と踊って終わらせるのだ。
リチャードが彼女から誘われたのは、デビュタントの日だけである。
「うわぁ拗らせてんね」
からかい口調で話に入ってきたのはアーネストだった。リチャードの持っていた飲みかけのワインを奪い、飲み干してしまう。
「お前、自分で取ってこい。人のを勝手に取るな」
「また取ればいいだろ。それより、リチャードが令嬢達の間で氷の貴公子って呼ばれてるの知ってるか?」
「「…………」」
リチャードとギルベルトは沈黙を貫いた。
「沈黙は肯定と言うよな? いやぁついに令嬢達にまでこんな慈悲がない人だと広まってしまったのか」
「──違いますよ」
「?」
何も言わない主に代わって、ギルベルトが口を開いた。
「確かに殿下を指す〝氷の貴公子〟などという名前が広がっていますが、政に関わる者ではない令嬢達の間では、『普段誰に対しても優しい王子殿下がふとした瞬間に見せる、笑っていない顔が端正でイイ』という意味らしいです」
ギルベルトは婚約者のエリナから聞いた言葉を一語一句間違いなくそのまま伝えた。
「つまり、性格面ではないと?」
「ええ」
「ちぇー、つまんないの」
「──何を期待していたんだ」
ようやく言葉を発したリチャードは不機嫌そうに眉を寄せた。
「令嬢間に広まっているということは、ルイス嬢の耳にも入っているだろ? そうなったら彼女はどんな反応するのかなーってね」
アーネストはリチャードの想い人を知っていた。だから毎度からかうようなことを言ってくるのだ。
言い返しても、彼には通用しないのでリチャードは早々に諦めた。
「で、場外警備のアーネストがなぜ会場内にいる」
「あー、人手足りてるから居なくてもいいって言われたんだ。なら、中の警備手伝おうと」
鞘に収めた剣に触れながらアーネストはそう言った。
「それに、中の方が楽しいからな。ギルベルトが踊らないなら私がルイス嬢と踊ってこよう」
意気揚々とこの場を後にするアーネスト。がしりと右手を掴まれる。
「お前はやっぱりダメだ。ヘラヘラしすぎている」
「ルイス嬢の前ではきちんとするよ」
「────ダメだ」
「お前の婚約者じゃないから決定権はリチャードには無い。持っているのはルイス嬢だ」
うぐっと言葉に詰まる。その通りなのだ。自分が彼女の友好関係に口出しする権利はない。
(…………もういっその事、煩わしいのを全て無視して求婚してしまおうか)
そんなことを本気で考えていた時のことだった。
身体がなにかに引き寄せられる。
「──レーナ?」
見るとそこには潤んだ瞳を向けるエレーナが、リチャードの裾を引っ張っていた。片手にはグラスを持っている。
視線が合い、花が綻ぶようにリチャードに笑いかける。
「でんか」
いつもより舌っ足らずな、甘い声である。頬は上気し、紅の引かれた唇はぷっくり色づいて少し艶かしい。
「どうしてここに来たんだい? ついさっきまであっちに居たよね」
さらりと目で追っていたことを告白してしまうほど動揺を隠せない。けれど、エレーナはそれには答えずにリチャードを見上げる。
むぅっと幼子のような顔をして、こてんと首を傾げながらこう言うのだ。
「みんな、リーさまと踊ってずるいです。私とも踊ってください──だめ、ですか?」
彼女はグイッと裾を引っ張って顔を近づけてきた。ふんわり髪から香る甘い匂いが鼻をかすめる。
「うおっストレート! ひゃー、これは誰でも心を奪われるな」
「黙れ」
「痛っ」
リチャードは思いっきりアーネストの頭を殴った。
(いきなりどうしたんだ……私に対しての焼きもち? まさかあのレーナが? いや、こういうレーナはアレだ)
頭が働かなくなるほどいつにも増して破壊力が凄まじい。理性が跡形もなく吹っ飛びそうだ。
だが、リチャードは気が付いていた。
「レーナ、そのグラスの中身は何かな」
「んーおみず、です」
エレーナは中身を揺らしながら答えた。
「あー、殿下残念ですね」
「うるさいよ」
ギルベルトは把握したようだ。哀れみの目を向けてくる。
「──ごめんね。後で新しいのをもらってくるからそれは僕がもらうよ」
「あっ」
半ば強引にエレーナの手からワイングラスを奪い、匂いを嗅ぐ。
何種類もの果実を合わせた爽やかな香りだ。明らかに水ではない。
確認のために口に含む。
「誰だ酒を飲ませたのは」
「知りませんよ。給仕から誤って受け取ってしまったのでは?」
リチャードはエレーナの鼻の先にグラスを持っていく。
「レーナ、これ水じゃないよね。飲んだ?」
「半分くらい飲みました。果汁が入っているのか甘くて美味しかったです」
とろんとした瞳を向けてえへへと笑う。
「完全に事故ですねこれ」
「……そうだな」
エレーナは極端にお酒に対して弱い。度数が低い物でも、一口飲んでしまうと目の前の状態になる。
初めて夜会でお酒を飲んだ時は、熱をはらみ潤んだ瞳に加えて普段より警戒心を解き、誰にでも笑いかけるその姿。誰も彼もを虜にしていた。
そのせいでエレーナに親しい者たちは、欲望を隠そうととせずに近寄ってくる者を蹴散らすので大変だったのだ。
以来、エレーナには飲酒禁止令が出されている。
「色が無色に近いので……配膳で水の盆に紛れてしまったのでは?」
光に当てて調べていたギルベルトが考察する。
エレーナが飲んだお酒は無色に近い黄金色のお酒である。ダンスフロアは目が疲れるほど光り輝いているので、薄く色づいた程度では分からなかったのだろう。
「で、どうするんだこれ」
アーネストは出来る限りエレーナを見ないようにしながらリチャードに尋ねた。
「──エルドレッドかルイス公爵を呼んでこい」
「了解」
(早く家に帰さなければ)
こんな状態のエレーナを一人にしておけない。リチャードは未だに自分の服を握っている彼女を眺める。
誰であって想い人の可愛らしい姿はずっと見ていたものである。
ましてや最近では見せてくれなかった類の姿である。目に焼き付けておきたい。けれど────
(場所が悪すぎる)
「あの」
「どうしたの」
「お返事いただいてません。私と踊ってくれますか?」
「うーん、残念だけどまた今度かな」
この状態のエレーナを他の子息に見せたくない。だからリチャードは自分の欲望を隠してエレーナを帰す方に動くのだ。
「なら、いいです。他の人と踊ってきますね」
不服そうなエレーナはふわふわな足取りでリチャードとギルベルトの囲いを横から抜けようとする。
しかし二人は彼女を妨害した。
「殿下は踊ってくれないのに邪魔をするのですか? 卑怯でずるいです」
唇を尖らせ、それでも逃れようとする。だから逃げられないように彼女の手を優しく握った。
「ずるいって思ってていい。だから、行かないでくれ」
他の人と踊ったらそのまま食われてしまいそうな様子なのである。彼女は押しに弱く、そもそも力で男に勝つことは不可能なのだ。
こういう時に王子という身分は忌々しい。何をするにしても一人を優先したら四方から横槍が飛んでくる。
舌打ちしそうになる感情を隠し、リチャードはエレーナに向き合う。
「じゃあ何処にも行かない代わりに、私と踊ってくださいませ」
再度、あどけない表情でエレーナは乞う。
「…………踊ればいいんじゃないですかね。相手からなのでそこまで心配しなくても。それに、」
煮え切らない主に対してギルベルトは一旦区切る。
「殿下だって踊りたいでしょう? たまには良いかと」
「…………」
「黙らせればいいんですよ。黙らせれば」
「──それはギルベルトが貴族たちの追及を全部引き受けてくれるということか?」
「えっ」
「そうか。ならいいね私の仕事は増えない」
そう言ってリチャードはエレーナを連れて踊っている輪の中に入った。
「ふふ」
彼女の手を取って最初の姿勢になるまで、ずっとエレーナは幸せそうに頬を緩めていた。
「そんなに嬉しいの?」
お酒の効き目は抜群で。エレーナは真摯な瞳をこちらに向けて、恋人が愛を囁くようにはっきりと告げるのだ。
「とってもとーっても嬉しいです。私、殿下のこと大好きなの」
純粋でリチャードのことを信じきった真っ直ぐな言葉だった。
想い人に大好きと言われて嬉しくならないはずがない。リチャードも自然と口元が緩む。
そしてボソリと彼女にも聞こえないくらいの大きさで呟いた。
「────僕はレーナのこと愛してるよ」
◇◇◇
エレーナは一曲踊って満足したようで、慌てて駆けつけてきたルイス公爵とエルドレッドに引き渡された。
後日、リチャードがこの件を覚えているのか探りを入れたところ、エレーナは不思議そうに首を傾げ「何か粗相を……?」と不安そうにした。
その為、「いいや、可愛い姿を見せてくれたよ」と言って、彼女を真っ赤にさせたのだった。