10.茶会の終わりと彼女にとっての事実
「舞踏会ねぇ……今年のデビュタントは多いそうよ。一番話題に上がるのはクロフォード伯爵家のメイリーン様。とても可愛い美少女らしいわ」
この手の情報通、サリアが最初に話し始める。
この国の社交界デビューは、夏に行われる王家主催の舞踏会と決まっている。そのため普段は社交界に顔を出さない貴族達も夏の舞踏会には参加し、一番大きな貴族の集まるパーティーの役割も果たしていた。
デビュタントは舞踏会開始時に中央で踊る。その際ダンスのパートナーを選ぶのだが、デビュタントに指名された子息達は拒否することが出来ないので、令嬢達の中では家格差があっても好きな人と踊れるチャンスだった。
サリアの言った通り、今年のデビュタントは人数が多いらしい。きっと最初のダンスのパートナーは人気の子息達の取り合いになるだろう。
「それなら私も噂を聞いたわ。なんでもクロフォード伯爵と夫人が我が子が可愛すぎて邸からほとんど外に出さずに育てたそうよ」
うんうんと頷きながらアレクサンドラも言った。
「それじゃあ公式の場所に出てくるのは初めてかしら? 是非一目見たいけれど行けなくて残念だわ」
イヴォナはまだ初子のシャーロットを産んで2ヶ月だ。体力的にも、イヴォナを溺愛しているエガートン侯爵も、社交界に顔を出すのは許さないだろう。
「デビュタントが終われば他の所にも顔を出すようになるわよ。身辺が落ち着いたら侯爵と一緒にまた社交界に来ればいいわ」
「そうねぇ……じゃあどんな方か後で教えてくれないかしら」
「ええいいわよ。任せておきなさい」
引き受けたサリアはバッチリ調べあげてイヴォナに教えるのが想像出来る。
「ありがとう。みんな楽しんできてね」
ふふっとたおやかにイヴォナが笑って、長時間外にいるのは出産直後の身体にまだ障るからと、お茶会はお開きになった。
◇◇◇
公爵邸に戻ったエレーナには、エレーナ自身にとっては残酷なことが待っていた。
それは貴族に一斉に広まった噂。
──王子殿下が舞踏会で花嫁を選ばれる。
ある者は歓喜し、またある者は嘆いた。
前者は舞踏会でデビュタントを迎える令嬢の家やまだ婚約者がいない者達。後者はエレーナのように恋心を秘めていた者と、最近になって政略的に婚約を他の家と結んでしまってチャンスを逃した家。
エレーナが聞いたのは自室に生けていた花の水を取り替えようと花瓶を持って廊下に出た時のこと。嬉嬉として弾んだ声でリリアンは、エレーナにとって残酷なことを告げたのだ。
『お嬢様! リチャード殿下がようやく花嫁を舞踏会で選ぶそうですよ!』と
持っていた花瓶は彼女の手をすり抜けて床に落ちて割れた。破片は物理的にエレーナの滑らかな皮膚を傷つけて生暖かい液体を大量に流させた。
自分が痛さで声をあげるのではなくて、リリアンが声にならない悲鳴をあげて屋敷中の者が駆け寄ってきても、エレーナは花瓶を落とした体勢のままずっと固まっていた。
彼女の周りには血溜まりができて、深紅のカーペットは赤黒くなって、飛び交う指示に、掴まれる手に、痛さがあるはずなのに何も感じない足。
『おっお嬢様……ごめんなさい……私が噂を話したせいで!』
ぐるぐる巻きになった包帯の足も、自分の血を吸って赤くなっていく布も、現実味がなくて、でも今にも命をもって償いそうな彼女がただ可哀想で、消えてしまいそうで、口を閉ざしていたエレーナはようやく一言絞り出した。
『貴女のせいではないわ。そんなに自分のことを責めないで』
だけどリリアンはその言葉を聞いた途端、床に泣き崩れた。ごめんなさい、ごめんなさい、お嬢様私は────と嗚咽混じりに。
涙でグシャグシャになってしまった彼女の顔にハンカチを添えてあげれば、嗚咽はいっそう酷くなった。
多分表情が凍っていたからだろう。がらんどうな瞳を向けていた自覚はある。彼女からしたらエレーナが心配しているようで責めているように見えたのかもしれない。
でも本当に、痛くなかったのだ。足だけは。
痛かったのは心で、諦めて、捨てて、違う道という名の婚約者を探そうとしていた舞踏会で。選りにも選ってなぜその場でと。
そして納得した。ああリチャードの言っていた『良かった』という言葉はこれを指していたのかと。それだけでエレーナの中で噂は事実となって第二の刃として彼女を刺した。
リチャードはずっと彼を追い続けて来たエレーナに、噂を聞いた際に心の準備ができるようにと思って先に教えたのだろうか。
分からない。なぜ良かったなどとエレーナに言ったのか。エレーナにとっては先に教えてくれた嬉しさよりも悲しさの方が勝るのだが。
ソファに座りながら足を上下に動かせば、包帯が緩んで傷ついた皮膚が見える。ちょんっと触ってみてもやっぱり痛みはない。だけど指先からは血の匂いがする。
(馬鹿だなぁわたし……)
くよくよといつまでも。何日も。めんどくさい人間だと思う。もう涙は出てこないけれど、悲しいという感情はエレーナの中で溜まっていた。ただ、涙という形を取って外に出てこなくなっただけで。
足を見てもらった医師からは治癒士に痛みを取ってもらえば、歩いたり踊ったりする分には問題ない。舞踏会にも参加は可能だと言われた。
両親はきっと欠席しなさいと言うだろうけれど、エレーナは絶対に行くつもりだった。
行って、王子殿下の花嫁を見ればこの諦めの悪い恋心を今度こそ捨てられると思ったから。