病
男は難病に罹患した。自分自身の抗体が筋肉の正常な働きを阻害する、自己免疫疾患の一種で、国から難病指定を受けている厄介な病だった。そのせいで瞼が上がらず、眼球も動かせず、物が二重に見えるせいで、歩くこともままならなくなった。
自分を守ってくれるはずの抗体に、攻撃される? そんな馬鹿げた病に、どうして? 男はやり場のない怒りを感じた。しかし、医者でも答えられない問いに、男が答えを出すことはできなかった。そうしているうちにも、症状はどんどん悪化していくばかりなので、男は入院することにした。
ちょうどその頃、会社を解雇されていた。仕事もないのだから、その点、支障はなかった。
問題は、金だった。当面の入院費は支払えるが、何の蓄えもない男には、退院後の生活費のあてなどなかった。
男には浪費癖があった。そもそも会社を解雇されたのも、自己破産したことが理由だった。多重債務を抱えた男は自己破産手続きを取ったが、カード会社から訴訟を起こされた。事情を知った会社は、体面を気にして男を解雇した。男の側に問題があったとして、会社は退職金も支払わなかった。
そんなわけで、男は明日をも知れぬ状況で、入院することになった。
それでも、悪いことばかりでもなかった。自己破産してからというもの、男はろくな食事を取っていなかった。そんな男にとって、三度の病院食はありがたかった。ホウレン草やブロッコリーといった、普段は敬遠していたものも、食べることができた。バランスのいい食事とは、こういうものを言うのだろう。感心しながら、少し味の薄い病院食に、男は舌つづみを打った。
看護師に優しくされるのも、嬉しいことだった。女性にはあまり縁のない男だった。若い看護師が入れ替わりやって来て、あれこれ世話をしてくれることに、「入院も悪くないな」と、男は本気で思った。
そればかりではなかった。男の入院を知った父親が、入院費の援助を申し出てくれた。退院後の生活費も困るだろうと、まとまった額を送金してくれた。
これで、当面は暮らせるな――。男はほっとした。自己破産してからの男は、さすがに浪費などしていなかった。カードを持てなくなったのだから、浪費をしたくとも、しようがなかった。病気の症状が出てからは、それまで以上に金を使わなくなった。出歩けないし、食欲も失っていたから、自然にそうなった。だから男は、父親からの送金で、かなりの期間は生活に困らないだろうと安堵した。
男は心に決めた。この金を、大事に、計画的に使っていこうと。
やがて、病気は改善に向かった。症状自体はみるみる良くなっていった。自己免疫疾患なので、免疫抑制剤による治療を施していたが、それが功を奏した。
ある日、男は医者に言った。
「先生、……俺、以前に戻ったような気がします」
瞼も上がり、眼球も動かせるようになった。ちゃんと世界が見える――。男は喜びを感じた。普通に見えることや、普通に歩けることのありがたさを噛み締めた。まもなく、男は退院した。
家に戻った男は、預金通帳を眺めた。その額を確かめ、これで何カ月暮らせるだろうかと考えた。症状が改善したとはいえ、再就職するにはもう少し療養が必要だった。
少しの間は、家でゆっくりしよう――。
男はぼんやり窓を見つめた。穏やかな気分だった。
ところが、見つめているうちに、ふと、あることが気になり始めた。
カーテンの汚れが目についた。特にレースのカーテンはひどかった。もともとは白色だったはずが、灰色に変色していた。
もう何年も、変えてなかったな――。
男は預金通帳に目を戻した。カーテンを買い替えるくらいの余裕はあるだろうか。頭の中で計算し、安いものでもいいから、新しいカーテンを買おうと、結論を出した。
そうして、家の中のものをひとつ、新しいものに買い替えると、他のものも気になり始めた。靴は薄汚れていて、底に穴が開きかけていた。布団カバーもシーツも、もう買い替え時ではないかと、思い始めた。冬を迎えるのに、暖かいセーターも欲しい……。
男は、いろいろなものを買い替えていった。家でゆっくりするには、環境も整えないといけない。これは、病気をよくするためにも必要なことなのだ――。そう言い訳して、父親から貰った金を、使っていった。
生活環境があらかた整うと、別の欲求も抑えられなくなった。久しぶりに映画館に行きたくなった。たまには美味しいものも食べたい。そんな気持ちも湧き上がってきた。
そうして、ついには、男としての本能も、彼を衝き動かし始めた……。
ある日、男は気づいた。それまで気づかないふりをしていたが、預金の額が、いよいよ切羽詰まったものに転じて、ようやく自覚した。
男は呟いた。
「何だか俺、以前の俺に戻ってしまったな」
そう言ってから、男はぼんやりと窓の外を眺めた。
もう、世界が二つに見えることはなかった。