エッセイ 離別や今生の別れに際して起こる純文学のような振り返る性質と現今の資本主義というか電子化でも物質的にも言語介入を回避できないそうした潮流における注意
暗号も暗証も無し。暗証や暗号への誘導も無し。
令和1年8月29日
小説家になろうへ投稿
櫛之汲
離別や今生の別れに際して人間は孤独を感じる。離別や今生の別れに際しては、自然に内発して起こる純文学のような遡及できない時の流れを漠然とあるいは懐古、振り返る性質がある。現今の資本主義というか電子化でも物質的にも言語介入を回避できないそうした潮流における注意を記します。
心豊かに心身清らかでありたいとは人間の世の常なる望みでしょう。
現今の資本主義というか電子化でも物質的にも言語介入を回避できないそうした潮流があります。電子という通信手段が起こるよりも昔から言語介入を完全に避けることはできないのですが。このご時世、電子の上での邂逅や知遇は、その瞬間に、今生の別れと離別が邂逅と知遇と共に同時発生いたします。そういうことを深く心に刻み安全を確保するのです。何人にも読者様にもそうしていただきたい。そのために私の信条としましては面会せず通話せずを信条とし之を守るのです。
人を人とするものは個々の個人と社会の間に起こる感激する心といえます。わざわざ世界人権宣言のような意味でもって云うとせずとも、もとより、人間に心は備わるものです、そう思います。
先んじた研究の元に論文を納めるように、自身を知る上では、而して例えば血縁がない中に人があると、自らの生活を支える社会を基づき生活をしてた先祖へと自信を知る上では思い馳せるのは無理がないことで天然自然であります。そうした時には遥か古代に生きた人々を思い感謝するは心ある証左とは少しばかり言い過ぎかもしれませんが、もとより、誰でも心に備わるのではないかと思います。これは何処の国でも起こると思います。敢えて類型して表現していくなら、自の故郷と思う国の文化を思う心には国境のない感激の種類と云えるでしょう。
自らの故郷と思う国の文化を思う心には国境のない感激の種類と云えます。こうした感激を持たない様子と指摘するとあらゆる読者様に思われたくないので、わが国の純文学性といえるのか分かりませんが、何分私は勉学や思慮が浅いのですが、こうした感激を小さく説いてみたいのです。
感心してくださると本意に御座います。
私の住まう日本では遥か古来より男子直系の王族あるいは皇族が続いています。令和の現在でいう、人間宣言をなさいました天皇という存在が続いています。ちなみに私は釈迦がひろめた仏教徒でございます。生まれながら、親が仏教信者でしたためにとある仏教宗派の仏教徒でした。母の実家はまた異なる仏教宗派であります。いろいろ家系図を辿れば神道なのかもしれませんし仏教一筋な家系なのかよくわかりません。曖昧です。父の祖母の配偶者の実家もどうやら別種の宗派でありどうも一様にこの宗派が続くのではありません。我が家と父方の実家は同じ宗派です。私は神社の御御籤にはあまり馴染みがないのですが、御神輿は子どものころ担いでいましたしクリスマスは洋風なお料理です。ハロウィーンだってなぜかどの仏教だか自治体だかの地域の集まりなのか何なのか忘れましたが行いました。誰とも馴染まなかったけれどお菓子を食べて手分けして部屋を飾ったりしました。食い意地張っていたので中国っぽいお菓子では甘い小麦かなにかの包み菓子っぽい語源的に羊羹っぽいという意味で中国っぽいお菓子が洋菓子ではクッキーが和菓子では芋羊羹とかとかくお菓子が美味しかった記憶です、話がそれました。
少し仮にと前置くのも原野から田んぼを拓いてお米を作って食してきた祖先と敬虔な信者にすまない気がいたします、ですが、謹んで申します仮に、遥か古代に神道が起こらなかったとしても、祭事をして五穀豊穣無病息災国の繁栄と康を祈っていくしきたりを持ち続けていいる一族というのは生まれながらそういう一族であって使命やおのおのご自身意志があっても祭事を行うのです。王族は世界的にもそういう性質があるように思います。生まれながらの孤独も含めて、葬儀等により今生の別れを経て孤独ととなった個人はきっと広い意味で広義での社会に感謝します。国際社会に、国に、街に、村に、家系の意味で家に感謝します自らの生活の基盤が人類の歩みがあって成り立つとわが身の孤独を体験して経験から天然自然に内発し痛感すると思うのです。その中に自信の家系の者が絶えていたりしたら男子直系で続く皇族を思い馳せる自身の家系図の元にある祖先の想像に重ねて、国際社会を含めて人類の先祖という先祖に感謝するのだと思います。王や皇は、個人でありながらも皇や王の族として公の場での心労、それに表裏する私的な場での心労、如何ばかりか推しはかれますでしょうか、いいえ、そう軽薄にできませぬ。世界の史実からして皇族王族というのが長く続き現今にあるのは難しいと思えます。
王皇に民族の移り変わりに激動の歴史があれど、孤独になった者は何を過去に思い馳せるか個々人各でしょう。現今に近しい激動の歴史あればその現今に近しい激動の歴史をひとつひとつ振り返りみていく。この心労も如何ばかりか推しはかることできますでしょうか、難しい。軽薄にできるとは言えません。
自然から内発に起こる純文学性を咎めることは自然できません。
勉学も浅く思慮も不十分で政治を知らぬ身で過ぎたことを申します。
例えば、言語介入が電子にまで及んでしまう世知辛い中でも、国と国という規模を代表する間なら、このようなご時世でも日本国と韓国であれば、拗れてしまっている現今の政府であっても、中身と形式の協議というものが情を軽薄に推し量れぬからこそ情を置いて、お互いに馴れ馴れしい態度を謹んで、互いが形式ばって、差しさわりない範囲のお国自慢を国の間の協議の場でしていき、緊張を緩めて中身を協議して形式を考えていくのかなと、そう望めるように私は個人的に思います。楽観すれば、孤独となったときにはお互い民族と国の先祖に思い馳せる純文学性があり、それを誇りに思うからこそ国と国が拗れたのです。
さて、大事なことなので繰り返しますが、現今の資本主義というか電子化でも物質的にも言語介入を回避できないそうした潮流があります。電子という通信手段が起こるよりも昔から言語介入を完全に避けることはできないのですが。このご時世、電子の上での邂逅や知遇は、その瞬間に、今生の別れと離別が邂逅と知遇と共に同時発生いたします。そういうことを深く心に刻み安全を確保するのです。何人にも読者様にもそうしていただきたい。そのために私の信条としましては面会せず通話せずを信条とし之を守るのです。