文芸への失望 エッセイ 憧れの本を突如読んだとは
暗証も暗号も無し。暗証や暗号への誘導も無し。
令和1年年8月24日
小説家になろうへ投稿
櫛之汲
憧れの本は小学生の頃突如読んだ。
前第一部で記したようにそんなに読書家ではなかった。
「江戸川乱歩傑作選」を読んで文芸への失望を強めた。これほど文章の連なり巧みで大衆に名を残し名実の文壇の一作家が「赤い部屋」や「人間椅子」や「二銭銅貨」を書いている。総合の纏りきめ細かなあるいは総じての文学性はさておき、忌避する事柄が縷々と書かれている。当時の小学生の私はどうにも忌避感覚からミステリーなんぞ大嫌い、いいや関心さえなく苦手なのです。文の流れの巧さは尋常でなかった。リアル鬼ごっこを例に出しましたが本文なんて読めていません、お考えになってください、私という小学低学年の頃の読解力でどうして流行の最先端を行くらしい文芸書の一冊を批評するに足る読書ができましょうか、ええとてもできませんよ。そのほかの文芸だってそうです。ケータイ小説だって文芸でありますそれは当然ものによりけりよくよくできていますよ編集者がおって校正もされて著者だって一所懸命でしょうどのようなジャンルの商業文芸も例に漏れぬと思うのです、当時もそうは思いつつ忌避感覚があった、之原始的な恐怖、達者な者がする怪談やおばけというのが怖いのと同じです。そういう意味でいえば魔王やら悪魔や鬼が恐ろしくて幽霊がそれに比べれば怖くない、怖いには違いない。そんな調子であります。しかるに憧れの本が江戸川乱歩の本かというと全然憧れない。
ここまで書いていくような作品が忌避するものであって文芸への失望を強めました。あの江戸川乱歩ほどの技巧がない文芸一般への失望をも強めたのです。
憧れの本は何だろうか。その実際を納め申せば前振りもなく気づくと分らぬうちに読んだのです。今もわからないのです。憧れとはそういうものであるのです。分らないそれでいいのです。