文字の瞬間表現
暗証も暗号も無し。暗号や暗証への誘導も無し。
令和1年9月2日
小説家になろうへ投稿
櫛之汲
言語を用いない写真の一瞬間は枠としかいいようがない。文字による一瞬間は、表現のうちに指定する空間に対する制限がなく文字数量の制限もない表現から脱線して迂回してから再び記述があってもおかしくはない。アニメや映画や漫画はこの文字の一瞬間の表現が適用できる。写真も写真集ならこの一瞬間の表現が編集されることで頁を進めて遡及して表現される。何頁前の何段落目を参照とあれば、頁を括る読者の手が頁前後左右に振れ動く。回想が挿話されたりして便宜がはかられたりする。視点が違えば一瞬間の表現も視点ごとに違う。
とりとめがないから、部分的に収まる一瞬間の表現について記します。
例えば茲に記しているようエッセイには一瞬間がありません。地の文と登場する事物とが両方あって文字の一瞬間の表現がページに起こってきます。
物語の進行が遅くなります。
細部が際立って書かれて大枠が止まっている。
大枠の動きの軽やかさやその妙が肝心ですけど、細部がないと、物足りない。簡易な行動と会話その心理描写の文字だけであってもつまらないし、戯曲となっているだけではよほど上手くないとつまらない。
茲に記すエッセイでいう湖とその後の文体が意図して違うように、地の文の表現も一瞬間の表現をみるように細部が書かれて、大枠が止まります。私の文芸への忌避という感覚と文芸の文字が動画や絵や演劇に適わないというエッセイの大枠といえるこのようなあらすじがあるにしても可愛げと可愛いは文体が違うという点や創作上の実妹論と現実の実妹との乖離という持論が展開されて一種大枠の展開が停滞しても文芸観という点で大枠の展開が起こったと読者がお考えになるのなら茲に記すエッセイの大枠は動いておりますから此の記述が一種一瞬間の文字表現ともなります。部分主題から別の部分への移りにその前後を繋ぐ脈絡がないとしても後述に茲に記すと読者によりけり繋がったりします。文脈における句点が一瞬ではないというのが文字の表現のおもしろさという日向性であり、くだらなさです。文体が大きく違えば忌避がありますし違和感がありますが私の文芸観や忌避や文字の表現性質をいう本質に逸脱はないのです。分りにくいものですし、そうあって自然です。一様でないことを書いています。文字の瞬間表現においても筆を執る者の表現捻出の土台が一様でなく、その表現事態も論理上視点があり一様にはならず、表現が一様であることがそもそも瞬間表現の本質にはないのです。すると前申したようなファンタジーに取り組むと戯曲らしい文章とは自然違ってきます。その程度が極端だと、違和感が起こるのです。小規模なカルチャーショックでもあります。文章に意図している感じがあることに忌避感覚があるのは健全な考え方です。謹んで申せば、暗号や暗証や暗証暗号への誘導も無し、こうした大前提が読めていないのです。文字表現は瞬間表現です。文字情報は用意にその性質や文面が流用できるのです。あらゆる主体が不確実です。不確実性のなかにあって、一瞬間の表現がある。情報がもつ性質への理解の差で如何で表現の奥深さが違います。大枠の構成力がないのでたいしたことは書けないのですが、失望の文芸観にあって、ファンタジーや児童文学に忌避を感じない。それでいいと思ってしまうのです。大枠の構成力があるとときに文章にさえ忌避感覚が起こってしまうのです。容易には理解出ない一様でない表現に文芸観が現れていく。抽象的に大枠が進むようであらゆる要素に抽象性が強い。この抽象性から脱却したのに、文字の瞬間表現に傾注していくとこの抽象性が表れてしまいます。忌避の感じない文芸を創作しても別種の忸怩たる思いが表れてしまうものなのです。児童文学に云う日向性との比較して整合性を意識していくのが文字の瞬間表現の創作において概括していく一種の方法な気もします。