創作上の可愛い論と創作上の可愛げ論と、現実上の実妹と創作上の実妹論
暗証も暗号も無し。暗証や暗号への誘導も無し。
令和1年8月31日
小説家になろうへ投稿
櫛之汲
文芸の話ばかりして、媚びてると思われたら心外ですからねええ、決して趣味をひけらかしているのではな……違いますからね。
忌避感覚があるといいたいのではなくって、趣向を凝らして納めます。10分やそこらで思いついた湖底湖心を思想の源流と兼ねて記してみたらちょっと真面目な姿勢を書いていて読み返しても自ら飽きてしまいました。
現実の上でも創作の上でも概念としても、妹に一家言あるわけではないです。ラノベにはよく登場する妹という登場人物の属性について記します。属性というのは火属性とかお馬鹿な子属性とかそんな用法で雑な物語の進行上で登場人物の配役をカテゴライズするときの役柄みたいなものですたぶん。
当然、血の繋がった実妹には、そういう属性とかはないわけです。血の繋がらない義妹なんぞおらんのでそこにどうこうは知りませんが、属性はないでしょう。物語の上で属性として表れてくる創作上の妹は、なんかあれです、現実の血の繋がった実妹とその実際乖離してます。当たり前ですが。
もっと可愛いですよ。これは極論ですけど、属性としての妹は文章文面だろうが2次元だろうが3D立体表現だろうが妹属性ですからね。現実の血の繋がった実妹は、同じ母から生まれたわけですから、可愛さの次元が違います。これも極論であるけど、あるいは全然可愛くないですよ。実妹が何時もずっと可愛いと思うとかおかしいです。現実の実妹というものは何時も可愛げがあります。現実では話をして、ふーんほーんとか、へーとか実妹は言わないわけです。相槌なんてしないわけです、実妹に話を振れば本題が返ってくるか急に本題に移ります。そしてそのそっけない返しそれに対しては、納得するか建設的な返しをするのです、スムーズなわけです。相槌はそこにないわけであります以上です。
「ん、それとって」「ん」これでも互いに愛想がいい方です現場からは以上です。「……」無言でお互い応対ししょうゆが運ばれてくるわけです。
「ん」「ん」なんてこともあるし「……」「……」ということもありますよ。リモコン、箸、しょうゆ、だいたい無言で意思疎通できますし、なんならジェスチャーさえないです。「今日ほにゃららだ」放送今日か、リモコンを「ピッ」ってな感じであります。これでもお互い愛想がいい方ですよ。一周まわって可愛げがある場面です。スマホがありますでしょう、こんな場面も懐かしい過去に。しょうゆは未だにありますね、偉大ですねしょうゆ。そんなんでも属性妹が表現されとっても、実妹の方が可愛いですよ。可愛げも実妹が勝りますよ、現実の血の繋がった実妹は、同じ母から生まれたわけですから、可愛さの次元が違います。これも極論であるけど、あるいは全然可愛くないですよということになるのです。
創作上の可愛い論を記します。可愛げと可愛いは創作上違います。文字書きにとって、あるいは創作上、可愛いは事物事象です。可愛げは文体です。注意点は可愛げは心理ではないのです、似て非なるものです。文字書きとして、あるいは創作上、可愛い事象事物の例は、イラストです。直感ですし、わかり易いですね。けれど挿絵ですね挿絵は文章ではない、人物の名前や人物以外の名称それら字面そのものや役柄属性もここにあてはまります。正鵠ではないものの記号的なものです。
文字書きとしての、あるいは創作上、可愛げ文体には語尾は含まれません個人的に、しかし方言とか造語とかオノマトペや相槌は含まれます。語尾かどうか悩ましいけれどですます調に可愛げありますか、ですます調に可愛げないですよ。個人の考えとして、いいやですます調には可愛げがですます調それ単独であると思う方は、その文体が可愛げあると思うわけです。
文体というのは思想的なものです。
語尾がそのもつ性質すべてではないわけですが、とりわけラノベでは登場人物の書き分け手法として語尾に需要があるらしいです。ラノベについて批評しているものの殆どに語尾の性質について書いてある気もする。
Twitterのtatuya@takuyaは、実験的に語尾というか文体を工夫しました。ぶりぶりしました。
目指したのは、安易に可愛げを模倣した先にある新天地といえるウザさです。茲で云うウザさは、もとより、Ampersand dustを下書きするころから私には備わっていました、自称備わっているのですが。
能力が低い文字書きですから可愛げはこの句読点関係ないのでさておいておいてウザいけど聞き流せる感じがなかったのです。能力が低い文字書きですから可愛げはこの句読点関係ないのでさておいておいてウザいけど聞き流せる感じがなかったのですと二回繰り返しました、なんだか並びが視覚的に読みづらいでしょう。下手だから、性格からしてそうなのですが。加えて、きっとほぼ間違いなく読んでて、めんどくさい。書いていても同じ調子で自分の文体に飽きて面倒です。
聞き流せる感じを私が捻りだすと、眠い、という時は、ねぷて。となります。方言化します。眠ひ、もありですけど、これは語尾的ですので、文字書きとしてあるいは創作上の可愛げではないです。
ねぷて。は。句読点がセットです。ねぷてとかくとねふだとかそんな感がありますでしょう。並ぶとわからない、横書きだと特に。なんとかですまる、この。がついてこそな感覚があります。
ねぷて。
ねぷて
ねぷて、
ねぷて―、
ねぷて―
ねぷて―。
私的に全部明確に文体が違います。
気に入って使う語の選択から文体、可愛げが左右されます。
てふ てふ、とは文字を送る的な意味だった気ガス。おぼろげです。
てふする
漢字では諜すると書きます、確かたぶんきっと。おぼろげ。
古文でてふをちょうと読むこともありますね、読みますがちょうするは可愛げない。
てふするは可愛げがあります。この語の選択は、個性がでます。てふてふは無個性ですが、てふ自体が奇をてらっていて、強調されます。
てふてふーてふてふ~という漢字です(どや顔)
こういう文体の発想にも思想の源流があります。一応、てふ、これは辞書にも載ってる言葉ですよ。ぶりぶりしてるだけではないのです。
思想の源流はおそらくスラングというかファン用語とか愛称とかで云う、Lたそ~ とかです。おぼろげになってます。
もふもふ~は可愛げがないです。もふもふです。
可愛いそのものの語に可愛げを求めるのはなんか違いますよね。かわいいとかカワイイとか記号をまぶしても表記が単に可愛いは表記が可愛いとしてあるだけであって可愛げはない。
語呂は重要です。語感も重要です。声にして可愛げがあるかは正直、演技の差ですよ。腕っぷし。声優さんが喋ればだいたい可愛げある。日高さんが喋ればだいたい可愛げあるでしょうなんかそんな感じで考えておいてみたら違和感ない。
ないのであります。これに可愛げを感じるのはケロロ軍曹の観過ぎですね。ないのであります。これが可愛げがあるのではなく、ケロロ軍曹の記憶に可愛げがあったことが残っているのです。
いるのです。
いるんです。
これも文体が違いますね。けれど、のですの方が丁寧な感じがします個人的に、だから、~のです、これは可愛げではないです。いうなれば純粋に趣味の域です。んですって可愛げもなさそうで、何か変ですそう思ってしまう。そういう人が~のですっていう訳なのであります。明治の時代にやたらでありますって語るでしょ、あんな感じですそれの個人バージョン。
モフモフは可愛げないですね、どうしてもモフの可愛げをカタカナで醸すことにあたり、モフでいくなら、一工夫要ります。甘ブリこと甘城ブリリアントパーク(角川)では、語尾ですが~フモッですね。モッフもあるけど、設定的に鳴き声なのか台詞なのか一読者である私としては判断がむずかしい。この愛称甘ブリの作家の凄さは、たぶん俗に云うビッチ、これがミッチになって違和感がないところです。作中の何処で出てきても違和感ないのです。
感傷的に評する、これはちょっと意味が分らない。捕捉していくと、ラノベにしかできないというより、ある種、文体感覚を作中に設定できる作家しかできない芸当です。
ガーリッシュナンバーのいわゆる私的な略称ガリナン、烏丸千歳というキャラの文体は私にはまりました。妹という属性です。まである、みたいな渡航先生の常套句もすとんと腑に落ちて面白いキャラです。
モブオブザモブとかいいですよね。文章の時点で可愛げの文体があります。勝ったなガハハ! は作中内の流行語で、文体ではあっても個々のキャラのものではない感じ。あく迄もそんな感じがしますね。呼び方は文体化どうか迷ってしまいますね。キャラクターちーさまのいう、悟浄君は君がついてて文体みたいに思えるのです。甘ブリにようにこれも徹底した設定であって、ほかの要素と常に一緒に思える。スラングでよさみがあるとは云ってもよさみを覚えるとは書かないみたいに。ふかみ。とか書けば伝わるからなのかである調ではよさみがついて、感嘆するときは、深みを感じるふかみ。とか、一部でというか一部の特権的な扱いを周知する風潮、尊み。とかとか。ちーさまは、私と誕生日12月15日が一致しててうれしみがあり気に入っています。現実の私の血の繋がった実妹の私へのそっけなさを忘れさせてくれます。現実の実妹は、渡航先生のキャラでいえば、はまちのこまちのほうがまだ、まだ近いですよね、あんなに可愛げないですけどね。現実の血の繋がった実妹の方が可愛いです当たり前です。有名な作家ほど妹ばかり登場させますよね、妹属性とはラノベでのキラーコンテンツ。定番の属性ですねしかし奥深いのです。ちーさまのよさは品性があるのです。妹属性かどうかはわりと、その……一読者として個人的に関係ないよ(わたりんこと渡航先生に対して小声。読んでてちーさまの独白部分「……知らんけど」という地の文とか超使いたいですよね。癖のある文体がいいのです。翻訳本の役で時代がかっているなかでも特別珍しい表現浮いてる表現がつぼな人はわかると思いますけれどもね、ね、感嘆符や記号に頼らない文体に余韻がでて素晴らしいのですよ。
エッセイであるから、オタク全開をぶっちゃける感じがとにかく大事です。
ボソッ。ちがう、
ぼそっ ここは句読点を付けないといい感じに思います。
繰り返すのも文字書きの技(無駄な趣向)です。
ぼそっ
小説家になろうのサイト内に、デフォルトで櫛之汲先生の作品はこちらってそんなのが運営側にプログラミングされていて書いてあるでしょう、あれ正直発見した当初はくすぐったいよね嬉しくないとかじゃないですよええ。でも漫画ではないし雑誌じゃないのよねって、文字書きに先生はやめてくれたまへって思いましたよね。このときの感じはえじゃなくてたまへって感じになりましたねたぶんですがね。
この駄文をここまで読むのは惰性感から同じ小説家になろうのユーザーしかいないでしょう、という希望的観測な心もち。
どうでしょう。この後、ぼそっとか文頭の前段についてて、終わりにぼとっって書いてあったらウザいのです。
ぼとっ
表現自体が落ちってわけですが、あんまり伝わらないのを承知です。
嗚呼、私は櫛之汲としては通常、難しいは、難しいとかむつかしいとか書いてます。Twitterのtatuya@takuya4313で書いたような聞き流せる感じの過剰さが際立つウザいそうした可愛げを実験的に書く文体は櫛之汲の小説を執筆をする際は控えています。
読書創作両面で児童文学に忌避感覚を感じない面があって、しかし一方で、私の素は残念な感じなわけです。ちなみにとかを単独で使うのは恥ずかしいですよ。こうしてとかそうしてとか、このように使うのです。とかとか。読む本にはこのくらい遊び心ほしいですよね、自ら書くとなると躊躇うけど、私は割と可愛げ振りがある文体ありだったりも、けれど児童文学ではなしだったりします。ラノベも児童文学の範疇だと思うけど。というか、ラノベは可愛げというか文体はできてる気がしますが、歩いてるだけな白砂のシェスタを読めばわかりますけど、私には戯曲にするだけの構成力がないのです。