文字書きとしての諸行無常という思想の模倣 エッセイ
暗号や暗証も無し。暗証や暗号への誘導も無し。
令和1年8月31日
小説家になろうへ投稿
櫛之汲
空想やアイデアの元を思想とみたら、思想を模倣していることになる。物の考え方や感じ方を真似している。誰もが生活をして国の歴史の一端に触れるように、歴史のなかの思想の跡が創作の取材に関わる。
何処かの国の文化でしかないことに失望していました。
物語の類型が決まるように、真理を考えることも思想の跡があって為る。釈迦やら孔子老子やキリストやらがいないと諸行無常だのと今の人間が考えない。広辞苑とにらめっこして何処かに模倣されて、諸行無常だと湖底湖心というわけです。湖底湖心の発想自体は10分も考えていないけれど、国語の教科書に所業無常の言葉がなければ、もう少し発想がかたまることに時間がかかって、あるいは湖心という語に関心さえなかった、また別の思想に辞書の語に諸行無常をみるのだと思います。辞書というのは極端な例ですけど、私の考えのもとは大方そんなものです。星空文庫の執筆ページで書く前に、ポメラで書いてみていて、どうも納得いかないなか、少し想像がかたまる気がして、kushinoという規約が変わり閉鎖しているTumblerのブログにイメージの湖底のイメージの藍の色をかつてつけていたり、書いてみて、イメージにあうイラストにしようかと色を描いて消していたりを繰り返して、いいや、かつて編集機能で藍の色は楽に色が付けられてそれにしてみただけだったり、まあいろいろあって湖と題してエッセイの中に落ち着く。
一言で言えば、むなしいと書いているのです。
そこから脱却した思想を書こうとしてできないわけです。
何処にもない文化を書くには文化を知らないとならない、文化を知れば知るほど、所業無常だと思えてならない。どんどん空想の何処にもない文化は狭まっていく。ハイファンタジーという概念は何処にもないのです。