不変
青年と少女が出会って二度目の冬のことです。
早朝の刺すような寒さと街に降り注ぐ陽光を背に、青年はいつものように少女に会いに行きました。
病院の中庭に着きました。
誰の気配も感じられません。
「おはよう」と青年は少女にいいました。
ですが、少女から返事はありません。
「今日も寒いね」と青年は少女にいいました。
しかし、少女はなにもいいません。
「昨日、足の具合を病院へ見せに行ったんだ。経過は良好らしいよ」
それでも、少女は静かなままです。
青年は少女の声を、あの心休まる声を、もう二度と聞けません。
*
二週間前のことです。
青年が日の出と同じ頃に、少女に会いに来ました。
この日はいつもと違い、青年は手提げのバッグを携えていました。
バッグの中には、以前撮った少女の写真が収めてあります。
前日に青年は少女と約束したのです。
「前に撮ったわたしの写真、見たいな」
「君の写真?」
「そう。もう瞼を開けることはできないけれど、お兄さんがどんなわたしが写ってるか説明して」
「わかった。じゃあ、明日持ってくるよ」
そういう約束を交わしていたので、青年は昨日のうちに写真のデータを現像しました。
写真のなかの少女はまだ胴も腕もあり、可愛らしく微笑んでいます。
これは少女の髪から咲いた花が綺麗だったので、思わず青年が撮ったのです。
それを少女に見せる時が来るとは、その頃の青年は思ってもいませんでした。
病院の中庭は閑散としていました。
昨晩雨が降ったからでしょうか、薄っすらと靄が地面から立ち上がっています。
青年は、少女に近づいて声をかけます。
「おはよう」
挨拶してみたものの、少女から何も返ってきません。
もしかしたら眠っているのかな、と青年は思いました。
起こすのはかわいそうでしたが、もう一度声をかけます。
「おはよう。朝だよ。昨日、君がいってた写真、持ってきたよ」
再度話しかけてみましたが、やはり少女から応答はありません。
青年の頭に、嫌な可能性が浮かびます。
ですが青年は首を振って、その可能性を否定します。
いやいや、昨日は普通に話せていたじゃないか、と。
昨日は、どこに少女の口があるのかわかりませんが、木から声が聴こえていたのです。
いつも通りに会話が出来ていたのです。
それが、まさか昨日の今日で話せなくなるはずが。
青年は三度話しかけます。
「今日の君はお寝坊さんなのかい? いつまでも眠っていると、僕は寂しいよ」
返事は、いつまで経ってもありません。
青年は木の幹に触れます。
「もうそろそろ、いいんじゃないかい? さすがの僕も・・・」
ですが少女はうんともすんともいいません。
中庭に静寂だけが流れます。
青年は、幹をまるごと抱きしめてみます。
「ああ、君ってこんなにも大きくなってしまったんだね。僕の腕では収まりきらないや」
そんなことをいえば、いつも少女は照れ笑いするはずです。
ふふふ、と噛むように笑うのです。
でも、そんな笑い声すら聞こえません。
青年は頑なに抱きしめ続けます。
「僕の声が聴こえているかい? 聴こえていたら、返事してくれよ」
青年の声はか細く、震えていました。
「なあ、いつまで僕をからかうつもりだい? もう充分だろう?」
「わかった、これは君の新しい遊びだろう。ちょっと質がわるいよ、これは」
「・・・オーケー。僕の降参だ。君の勝ちだよ。なにか欲しいものでもあるのかい?」
「おいおい、勝敗はもうついたよ。もう君の勝ちで終わったよ」
「だからさ、うんの、ひと言だけでも、いって、くれよ」
青年の言葉は、途切れ途切れでした。
彼は、気づいていました。
もう手遅れであることを。
知っていました。
いつか、この時が来ることは。
覚悟もしていました。
少女と話せなくなる日が来ることを。
信じていました。
話せなくなろうとも、泣かないと。
でも、実際は、そんなこと、耐えられませんでした。
抱きしめる腕に、これ以上ないほど力が入ります。
必死に、嗚咽を押し殺そうとしているのです。
瞼を閉じて、思い切り歯を食いしばります。
涙を一滴も零さないようにしているのです。
限界は、間もなくして訪れました。
青年の腕の力が急激に緩みました。
青年の目元の力が一気に緩みました。
青年は足元から崩れ落ちました。
青年は縋るように木に額を添えました。
青年は、少女を慈しむように、泣きました。
「ああああぁああああ、うああぁぁああああ・・・」
彼の声は、誰の耳にも届いていないでしょう。
目の前にそびえ立つ「木」以外には。
*
あの日以来、しかし青年は毎日欠かさず少女だった木のもとへ訪れました。
クリスマスだろうと、年越しだろうと、変わらず足を運びました。
そして、少女との約束を果たし続けています。
「わたしは話せなくなるけれど、お兄さんはたくさんわたしに話しかけてくれればいいの」
いつか、少女はそういいました。
だから青年は誠実に、堅実に話しかけ続けます。
傍目では木に話しかける、病んだ青年だと思われているかもしれません。
それでも構いません。
青年の前にある木が一人の少女だったと、誰が想像するでしょう。
あるいは逆と捉えられてしまうかもしれません。
青年が大切に抱えている少女との想い出はすべて夢で、それをただの木に語りかけていると。
もちろん青年としては、そう思われるのは好ましくありません。
事実、その木はかつての彼の伴侶、誰よりも愛していた人だったのですから。
どんなに周りに馬鹿にされようとも、青年は続けます。
彼が死ぬ、その時まで。