美術室の廊下で
「藍!」
倒れている藍に、三人は愕然とした。翠が慌てて駆け寄って抱き起こした。
「翠姉ぇ」
何かあったの? そんな具合に藍は目を覚ました。ほんの僅かな間だが、気を失っていたことが分らなかった様子だった。
「藍、大丈夫なの? 体は何ともない?」
「体って? あぁ、そうか」
言いながら、藍はリボンを握っている手をぷるぷると振った。
「大丈夫みたいっ」
心配顔をしている三人を見上げて、藍は平気というふうに力強く立ち上がった。
「玄。藍は大丈夫なんでしょ? ハルカさんはそう言ってくれてるんでしょ?」
翠は玄にすがり付いた。こんな未来は有り得ない。得体の知れない未来に、翠はうろたえるしかなかった。
「ごめん、翠。ハルカさんはもう出て来てくれない。何も言ってくれないの」
何度も心の中で叫んでいる。どんなに頼んでも、ハルカはその存在さえも感じさせてはくれなかった。使命を果たし終えたと思って、もう居なくなってしまったのだろうか。
「真白には、分かる?」
「ごめん。その記憶は、私の中には無いよ」
真白には、ほんの僅かに自分が幽霊だった時の記憶がある。救いを求めて彷徨っていた気がしている。しかし、藍を襲ったという覚えはなかった。でも、断言できない。記憶は曖昧で、図書館にいたことも覚えてはいなかった。
「翠姉ぇ、大丈夫だってっ」
三人の深刻な表情に、藍は自分の身に何事が起きたのか心配になった。だが、気分はむしろ爽快としている。少し倒れてしまったばかりに、こんなにも心配されて申し訳なく思った。
「翠は、このまま一緒に帰ってあげた方がいいよ。先生には言っておくから」
真白が藍の顔を覗き込んで言った。自分の幽霊が襲ったのだろうか。真白は不安を隠さずにはおれなかった。
「どこかへ行くのっ?」
藍が姉を気遣いながら、小声で訊いた。
「先生に呼ばれて、美術室へ」
「じゃあ、翠姉ぇも行ってきなよ。私は、平気っ」
「駄目駄目、藍ちゃんを一人にはさせられないよ」
真白は絶対に不安になることをさせない。もしものことがあれば、真白は悔やんでしまう。原因が自分にあったらと考えると、気が気ではなかった。
「じゃあ、私も行くっ」
ぴょんぴょんと飛び跳ねて、藍は大丈夫であることを主張した。翠は真白と玄を見て、こんな妹で御免なさいというふうに頭を下げた。
先生の要件は、三人にペインティングナイフセットを渡すことだった。
「先生のお手製ですか?」
ブレードの先のしなやかさが市販品とは違っている。ハンドルも含めてオールステンレス製で、豪華なプレゼントであった。
「まさか。でも、特注品だ。大事に使ってやってくれ」
先生はポンポンと三人の頭を順番に撫でていく。部員の宝物になればいいと心を込めて渡した。
「きゃきゃきゃゃゃきゃ。ふぅぅぅぴぃぃ、ふぅぅ。りりりっぎぎぎっ」
美術室の壁に掛けられた卒業生たちの作品を見ては、藍は一人で奇妙な歓声を上げている。一つ一つを擬音化して表現しているようだが、玄たちには謎の奇声としか聞こえない。
「藍ちゃん。これ、あげるわ」
玄は新品の絵筆を差し出した。藍には玄の意図が分らないかもしれない。しかし、藍には絵筆を持っていて欲しい。藍が違う未来を選択していても、玄には魔法使いの藍が未来にも少しだけいて欲しかった。
「ありがとうございますっ」
藍は絵筆を受け取ると、くるくると回した。まるであの時の藍のように、ちょこちょこと爪先立ちで、廊下へと出て行ってしまった。
美術室前の廊下から古墳丘が見える。そよ風が流れ、藍のさらさらのショートボブの髪が揺れていた。
「ここから見える小さな丘の上。あのてっぺんの木に墓碑があるんですっ。そこに眠っているのは、ふたりっ。つまり、玄さんと玄さんです。そして、二人の魂は、《わたし》の魔法で元に戻るんですっ」
藍の口から言葉が自然と漏れてきた。
七月十二日は、特別な日だ。特異日という。
藍が口にした言葉は、藍自身のものではない。誰も聞いていない。
もし誰かが聞いていたとしても、玄さんと玄さんと《わたし》を、果たして誰のことかと正確に聞き分けられるだろうか。
玄という名前は、四人を差している。
ゲン。ハルカ。ハジメ。玄。
そして、
《わたし》とは、誰なのか。
藍。アイ。マシロの声をした藍。
それとも、四人の玄。
その言葉を発しているのが、紛れもないあの人だから、正確に言っている。図書館の壁から現れたあの人だ。この物語りの要にいる人。




