野球部の練習試合で
美術部からの帰りに、三人は校庭を回って運動部のグラウンド脇を歩いた。並木道を真っ直ぐに行けば、校門には一番の近道になるけれど、真白が寄り道をしたがった。
パシッ!
革を叩くような乾いた音がした。
パシッ!
音に近付いて行くと、野球部がまだ練習試合をしている最中だった。
パシンッ!
力強い速球を受ける音は、校舎に反射して、投球の威力を物語っていた。野球を知らなくても、その投げられた球がどれだけの猛練習によって得られたのかを想像できた。
九回裏をツーアウトフルカウントで、次が最後の一球だった。マウンドの長身の投手が、力強く振り被った。
「行けーっ、高橋ぃ!」
真白の声援を受けた球は、本来の力を上回り捕手へと投げ出された。高橋の渾身の一球。それが、この一投だった。
バシッ!
ゲームセット。高橋は高校野球で、初めての完全試合を達成した。
「やったぁ。おめでとう、高橋ぃ」
嬉しそうにして真白が飛び跳ねながら喜んだ。それを玄は呆然として見ている。記憶では、高橋は下級生にホームランを打たれる筈だった。ここでもまた違うことが起きている。未来は一つではない。そんなことは既に分かっているのに、何時だって戸惑ってしまう。
「真白、おめでとう。高橋にお祝いしてあげなきゃね」
翠が拍手をして、真白を讃えた。
「それがね、駄目なんだよね。この試合に勝って、野球部を辞めるって言ってたから」
「あらやだ。もったいない」
「それが受験生の悲しい定めなんだよ」
マウンドでバッテリーが肩を組み合っているのを、真白は眩しそうに見ている。高橋ははつらつとしていて、精悍で雄々しい男性だ。その二人の視線が熱く絡み合っていた。
「あれ? もしかして、真白って、高橋と付き合ってる?」
玄が出し抜けに言ってみた。その言葉に、真白も翠も呆然として声も出なくなってしまう。
「今更だけど、あなたらしいね」
「うん、今更だね。教室で私たち、いつも一緒にいるのに」
「そうだね。真白と高橋はいつも一緒にいるのに、玄は気付いていないのよね」
「嘘! いつからなの?」
「いつからって、もう一年くらい前からだし」
「でも、高橋だよ」
玄は腕まくりをした高橋に、頭を机に叩き付けられているハルカを思い出していた。私と言えなかった頃の玄は、人格を二つ持っていた。その時の高橋は控え投手で、決して恋愛対象としては相応しくない。そんな奴だったのだ。
「それは、どういう意味かな、玄ちゃん?」
真白は玄のことが分かっていて言っている。ハルカの記憶を持っているから、そう言っているのを分かっている。
「ごめんなさい。私、今を見ていないよね」
「そうだね。玄は、ハルカさんがハジメさんを好きなことしか考えてないからね」
「中学生の時に現れたハジメさんは、ヘカテの幻だって、私たちは何度も話し合ってきたでしょ。そう信じるしか、私たちには出来ないよ」
翠が玄の手を取って、励ましてくれた。
「ハルカさんが玄の中の居なくなっていくのは、ハルカさんの意志だよ。だから、玄にそろそろ好きな男の子に告白でもしてみなさいって言ってくれてるんじゃないかな」
「真白は、どうなの? マシロさんは、いるの?」
「あの人は、見てくれているだけなんだと感じてる。マシロさんは小学生の時に死んだ人だから、いつも陰にいることに徹しているのかな」
「陰かぁ。ハルカさんも私が高校生になってから、そうしてくれるようになって。でも、寂しいんだけどなぁ。七月十二日の後は、どうなっちゃうのなかぁ」
「ホントだね。私たちは一人になってしまうのかな」
「どうしたのよ、玄も真白も。人って、そんなものだよ。一人で頑張って行くものだよ」
心に一人しかいない翠が励ましてくれる。一人でもしっかりと生きていけることを教えてくれていた。