皆既月食の天で
皆既月食が、赤銅色の不気味な光を放っている。
河岸段丘から見える土地は、地・水・火・風・空の五大をなす風の精霊を祀る聖なる神社だった。今はその建物どころか、破壊された瓦礫さえも残らない荒涼とした大地と化していた。断層を剥き出しにされて、凶悪で野蛮な地中のはらわたを覗いている気分がする。
列車が停まっている崖の上の駅に、ハルカとハジメが降り立った。月の魔人ヘカテが呪力を失うこの皆既月食に、最後の決戦をする。ヘカテの砦に残されるマシロという防御壁を破るために、本物のハルカをアイは待ち焦がれていたのだった。
「私があいつらを食い止めます。お二人は先に砦に行ってください」
アイたちの前に出現する無限の魑魅魍魎どもの中に、最も邪悪な存在がいる。絶対に許すことが出来ないあいつらは、ハルカとハジメに深い心の傷を負わせていた。
大鎌を振り上げる三体の甲冑兵は獲物を取り囲み、まるで責め苛むことを楽しむようにして宙を飛翔している。絶対的な力の差を誇示して、咆哮を上げては、獲物に襲い掛かり追い詰めていた。
風の精霊・アイは、この直前に姉を喪ったと思い込んでいる。だからこそ、この無謀な戦いに臨んでしまった。
―――死ぬかもしれないね。
微笑みながらミドリが最後にくれた言葉が、片時も頭から離れない。自分がもっと強ければと、悔やまれてならなかったのだ。無限に増殖を続ける魑魅魍魎どもに向かって行く勇気。最悪の状況下での気丈さ。そして、姉としての妹への優しい思いやり。どれ一つ取っても、アイはミドリには敵わない。
―――ありがとう、藍。
そう言ったてくれたミドリに、何も応えられなかったアイは、今は憧れの姉と同じ思いを持って敵に突き進んでいる。姉と同じ気持ちになって、姉と同様に両腕を伸ばして真空刃を装備している。体の内から湧き上がる怒りが、咆哮となって発せられていた。
風の精霊の神社から裏山に続く森は、聖域として何千年も前の太古から、精霊を守ってきていた。樹齢千年を超える樹木が、神木となって聖なる環境を作り出した。それが単なる森とは違っていることだ。立ち入ることを容易に許されない雰囲気がある。正しく精霊の土地に相応しいものだ。
甲冑兵の一体が、単独でアイに斬り込んで来た。大鎌を振り降ろす構えは大胆で、反撃の隙をわざと与えているのが見え透いていた。
「人間の世界で戦っていた時のお前とは違って、随分と慎重ではないか」
厳つい兜の面頬を外して、醜い口元を歪ませて見せた。アイにはそれが何をするものかを分かっている。相手が挑発して、こちらの冷静さを欠くつもりなのだ。
「あの人間どもを斬る感触は、最高だったな。特にお前が連れていた女にそっくりな奴の首を斬った手応えは、今でも覚えているぞ」
赤い眼鏡を掛けていた玄のことだ。甲冑兵は右手を差し出して、軽く手を振ってその感触を示した。
「あの時、お前は助けられたのに、見捨てたんじゃないのか。俺にはそうはっきりと見えたんだがなぁ」
「ギャハハハ、そいつは精霊だぜ。人の心なんて捨てたんだ。精霊になる人族なんて、そんな冷酷なものさ」
アイの背後でいる甲冑兵どもが下品な声を上げた。
「そうだな。あの人間の首の感触も良かったが、お前の姉の風の精霊も―――」
手を差し出していた甲冑兵の言葉が、アイの血液を一気に逆流させた。髪が逆立ち、冷静だった表情が一変した。憤怒の形相で、両腕に装備していた真空刃を最大限に延ばして斬り込んだ。
ガギィンンッッッ!
大鎌が真空刃を難なく受け止めていた。アイを逆上させて、猪突猛進させてしまう。周りが見えなくなって、持てる力を発揮できなくなってしまう。その甲冑兵どもの作戦は見事に成功したのだった。
「他愛無い。精霊とは言え、やはりガキだな」
背後の二体の甲冑兵が、大鎌を薙ぎ払った。
アイは受け止められた真空刃を見境なく斬撃し続けた。姉をどうするつもりなのだと、血が騒ぎ狂ったように猛進した。ミドリを愛するアイだから、それを汚す者を許せない。その言葉の続きを言わせることを、アイには絶対に断たねばならなかった。
「翠姉ぇに、何をしたっ」
アイは絶叫して、次の真空刃を繰り出した。
しかし―――
左脚の太腿を、背後の大鎌が切り裂いた。深く深くえぐり取られていく。アイは奥歯を噛み締めて振り返った時、次の斬撃が正面から襲い掛かっていた。
右腕が肩から胸にかけて斬り裂かれてしまった。辛うじて切り落とされることだけは避けたが、だらりとぶら下がっているだけで腕としての機能を失くしていた。
アイの周りをぐるぐると回る甲冑兵ども。どうやってアイをいたぶってやろうかと、残忍な思考を巡らせているのだった。
次第に精霊としての呪力を失っていくアイは、高い神木に寄り添った。樹齢千年の生命に包まれて、温かい息吹を感じる。この心地良い息吹だけが、瀕死のアイを慰めてくれた。
「精霊殺しってもんは、最高だぜ」
降り降ろされる大鎌に、アイの肉体は神木の幹に縫い付けられた。腹を突き刺され、神木と一体とされた。
「ギャハハハ。悔しいか、風の精霊・アイ。姉も直にお前と同じようにしてやる。ジワリジワリと痛め付けて、残酷に殺してやるぜ」
!
翠姉ぇは、死んでいないんだ!
薄れいく意識の中で聞いた甲冑兵の台詞が、アイに自分を取り戻させた。ミドリが殺されていない喜びと生きてくれている安堵、そして死をもたらす甲冑兵への怒りが、アイを極限状態にさせてしまったのだった。
勝ち誇り凱歌を上げながら去って行く甲冑兵どもは、突然の疾風に襲われた。風の精霊の神社の境内があったであろう聖なる場所で、甲冑兵どもはアイの精霊の怒りに触れた。
神木に縫い付けられた肉体を離れて、アイは魂となって撃進した。その攻撃は、あらゆる防御も防衛も許されない。大鎌を振って立ち向かったところで、甲冑兵どもには何の役にも立たなかった。
一瞬で胴体を真っ二つにされた三体は、地上へと落下して行く。何が起こったのかも分からぬ刹那で甲冑兵どもを斬り倒し、アイは姉のミドリを救ったのである。
―――翠姉ぇ。もう一度、逢いたい。逢いたいよぉ。
皆既月食の天に穴が開いていた。精霊の古い呪文が、人間の世界への扉を開けていたのだった。