幸福な今で
「ハルカは?」
真白が地面に倒れ込んだまま呟いた。
「私の中には、もういないわ」
打たれた頬を撫でながら、翠は自分に問い掛けるように応えた。
「はるかって、誰のこと? 私のことじゃないよね」
玄は事情が分らずに、二人の顔を不思議そうに見比べている。
ハルカは確実に翠から引き剥がされていた。翠の中にはいないというのだから、何処へ行ったのだろうか。消滅して行ったハジメが、向こうの世界へ連れ去る余裕はなかった筈だ。だったら、ここにいる。絶対にいる筈だった。
「ハルカ。いい加減にしなさい。あなたは幻の存在ではないのよ。あなたが自分を否定するなら、私はどうなるの? 私は向こうの世界にいたマシロなのよ。でも、この真白は、私を認めてくれたわ」
マシロはドンと胸を叩いた。自信を持って、自分の存在を肯定していた。
「だから、ハルカのことだって、この玄ちゃんは、きっと認めてくれる筈だよ」
風が木々の葉を揺らしている。ハルカの不安が墳丘に充満して、まるで木々が泣いているように感じられた。
「勇気を持ちなさい、ハルカ。あなたは立派に今まで闘って来たんだから、居なくても良い存在なんかではないんだよ」
「ハルカさん。何時だって、私はあなたを見て来たんです。ハルカさんがいてくれたから、今の私、つまり今の翠がいると思うんです。私のことをいつも思ってくれていて、有難うございます。真白ちゃんのことだって、玄ちゃんのことだって、ハルカさんはいつも大切にしてきたのを知っています。そんな優しいハルカさんがいなくなるなんて、悲しいです。とても、私は悲しいです」
翠は地に伏せて泣き崩れている。
「玄ちゃんは、居ても居なくても良いなんて、本気で思っていないよね」
真白は事態を理解出来ずにいる玄に言った。親友だから、玄の本心が分る。もしかすると玄自身よりも、玄をよく分かっているのかもしれない。
「私は真白ちゃんが傍に居なくても平気だよ。だから、真白ちゃんは自分がしたいことをしても良いんだよ」
「それは嘘だわ。玄ちゃんは母子家庭だってことを気にしているわ。だから、いつも強がっている。自分の心に弱さがあることを隠して、心にもないことを言っているんだよね」
「そんなことないよ。母子家庭なんて、今の世の中では普通のことでしょ。強がる必要なんてないし、私は自分を信じているわ」
「玄ちゃんがいつも居て欲しいのは、私でも翠ちゃんでもないよね。分かっているんだよ。それはね、恥ずかしいことなんかじゃないよ。自分の弱い気持ちだよね。泣きたい時に泣いてくれる、自分の本当の気持ちだよね」
真白は、そっと玄の肩を抱き締めた。居ても居なくても同じだと思っていた、真白が与えてくれる体温は、玄をとても優しく包み込んでくれた。
「いいの? 私は泣けるの? 泣いていいの?」
「いいよ。その気持ちが、ハルカさんなんだよ」
真白と玄が、泣いている木々を見た。そこにはハルカがいる。
「居ても居なくても良いなんて、もう嫌よ。私は一緒にいたい。いつも一緒にいたい。ハルカさんと一緒にいたい」
優しい気持ちが玄の中に飛び込んできた。これがハルカの気持ちなんだなと、玄は幸せな気分になった。いつも一緒にいることの喜びが、こんなにも嬉しいことだっただなんて、玄は初めて知ることが出来た。人には弱さがある。それが実は強さでもあるのだと、玄は思い知らされていた。
「真白ちゃん」
玄は右手を差し出した。
「翠ちゃん」
そして、左手を出して、強く二人の手を握り締めた。
「私たちは、ずっと一緒だよ。一緒に居ようね」
それが玄の本心だった。
「ところで、玄ちゃん」と、真白が言う。
「あなたは誰かに殺されたことになってるけど、どうする?」
「それなら、玄ちゃんの家に行こうよ。あのムカつく刑事たちを驚かせてやりたい」
翠が受けた嫌悪感をハルカを通して、玄は知った。
「玄ちゃんが生き返ったんだって、ビックリさせてやりたい」
「キシシシ、いいね。私、賛成。やろうよ。気分爽快」
真白がワザとらしい作り笑顔になって言った。
「私ね、お母さんに抱き締めて欲しい。こんなふうに―――」
玄が両手を広げて二人にしがみついた。
「きゃーー」
「あははは」
「えへへへへ」
天真爛漫。天真爛漫。三人の笑い声は、天高く昇って行った。
細く薄い月だけが、その天上からこの三人を静かに眺めている。月の神、或いは月の魔人・ヘカテ。その真の姿は、一体どちらなのだろうか。本性を晒したハジメが、次に現れるのは何時なのだろうか。不安な未来が、三人を待ち受けている。
でも今は、一緒に居たい三人に幸福を感じさせてあげよう。今だけは―――