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月と魔法の物語り  作者: Bunjin
七月十二日―――再会
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玄の家で


「清水玄さんが、亡くなりました。昨夜、何者かに殺されたのです」


 翠は玄が住んでいる団地に着いた時、周囲が異様なほどに騒然としていた。特に警察関係者は、明らかに動きが大きい。事件発生から一夜が明けて、犯人が捕まったのだろうかと、翠は初めて目にする光景に戸惑っていた。


 団地の主婦たちが集まって、不安げに何事か話をしている。小中高の一貫校へ迎えに行こうとしている最中であった。そこへ制服姿の翠を見掛けて不審に思えたのであろう。学校は生徒たちを、もう下校をさせているのかと戸惑ってしまったのだった。


 翠はそんな視線に気付きながらも、団地の階段を駆け上がった。三階の見慣れた玄関扉が並んでいる。その一つの薄汚れた鉄製の扉を開けて、人相の悪い二人組の男が狭い通路を塞いでいた。


 刑事だ。


 翠は咄嗟に、そんなことを直感的に察知した。殺人事件なのだから、当然だろう。被害者の唯一の肉親の周辺を捜査しているのだった。


 けれども、翠にはそうであったとしても、しかも学校を抜け出して来ているのが露見したとしても、玄に会わなければならない。それが最悪の下でも――玄の遺体とでも、会わなければならないのだった。


 息が詰まる。翠は刑事たちに睨まれたまま、玄関に立った。母が中にいる。げっそりと頬がこけていた。目も落ち窪んだように隈が出来て、生気が無くまるで病人だ。不意に現れた翠を目の前にしても、まったく反応していなかった。


 翠の中のハルカは泣きそうになった。これが母なのか。娘の為に強く生きてきた女の筈だった。常に明るく前だけを向いて、娘を懸命に育ててくれていた女の筈だった。


 お母さん――― そう呼べたらいいのに。ハルカは己を恨むしかなかった。


「あら、翠ちゃん」


 どれ程の時間が経ったであろうか。漸く来訪者を確認した母は、弱々しい声を掛けてくれた。


「翠ちゃん、ご免なさいね。せっかく来てくれたのに、玄ね。玄はね、いなくなったのよ」


 翠に話し掛ける母は、視線がここにはない。遠くの人を見ているように、母に囁き掛けられている。翠は不思議な気持ちがした。これでは、心が壊れてしまっているみたいではないか。娘を亡くしたのだから、当然なのかもしれないけれど、少し違う。翠にはそう感じられた。


「―――おばさん。玄ちゃんは、どこ?」


 部屋の中には、玄の遺体はない様子だった。玄関から覗くだけで、家の中は丸見えの狭い団地だった。


「玄はね、突然居なくなったのよ」


 母の視線は、翠の背後に遠く向かっているままだ。


「救急車が来た時は、もう玄は亡くなっていたのにね。検死とか言われて運ばれていたら、目の前から居なくなったのよ」


 遺体が消えた?


 だから、母の心が壊れてしまったんだ。娘の死を受け入れることも出来ず、だからと言って無視することも出来ない。悲しむことも哀しむことも許されず、それなのに悼み弔う訳はいかなかった。


「玄の体が、文字になって消えたのよ」


 母の嘆きの呟きが玄関から外へと飛んで行く。二人の刑事が、有り得ないことを言うなと嫌味な表情を浮かべた。科学捜査が常識の現代で、神隠しのような戯言を受け付ける筈がなかった。


 だが、翠はそれを聞いて、強い確信をした。ハルカが翠の中で、叫び声を上げている。玄は死んではいない。絶対に死んではいない。そう叫び続けているのだった。


「おばさん。居なくなったのは、玄ちゃんじゃないよ。玄ちゃんは生きているよ。私が連れ戻して来るね」


 翠の言葉に、刑事たちが反応する。中学生が余計なことをするなと、釘でも刺そうかとお互いの顔を見合わせていた。


 狭い通路を翠が立ち去ろうとすると、案の定刑事が声を掛けて来た。だからって、翠はここでたじろいでいるわけにはいかない。大人に恐れ入ってしまう暇は、今の翠には余裕がなかったのだった。


「私みたいな子供に、何か出来るとでも思っているんですか?」


「知っていることがあるのなら、正直に言いなさい」


「おばさん・・・いいえ、お母さんが言ったことは、本当のことです。それを信じられないのは、あなたたちの勝手でしょ」


「馬鹿馬鹿しいことだ。人が文字になって消えてしまう筈がない」


「違うわ。魔法の文字に戻っただけだと言ったら、信じられますか? こことは違う世界には、魔法使いがいて、信じられない不思議なことが起きているんですよ」


 真っ直ぐに刑事たちの瞳を見詰めて言う翠に、両方の掌を上に向けて、肩をすくめた。魔法使いの好きな女子中学生を相手にしても仕方がない。そんな仕草をしたのだった。


「我々は大人なのだ。子供の遊びに付き合っている暇はないのだ」


 翠が去って行く。その後ろ姿に向かって、刑事たちは唾を吐き掛けるようにして、自分の立場でしか物を見られない下劣で下衆な言葉を吐いた。


 壁がひび割れて補修痕が残る階段を、翠は二段飛ばしで駆け降りる。


「私だって、こんな経験をしていなければ、何も知らずに幸せにいられたのに」


 ハルカになってしまったのは、絶対に望んでいたことではない。ゲンと呼ばれていた頃が懐かしい。でも、それは玄にとっては負の人生だ。己を偽って、幻のゲンを作り出していた玄と、それに関わってしまった多くの人々の愚かな過ちだったのだ。


 だからこそ、玄を救い出す。玄をゲンにしない為に。そして、ハルカにしない為に。



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