あの日の始まりで
「佐藤は何で、子供になっているの?」
独り言のように呟いていると、鏡の端に口を開けている女の子が見えた。翠は振り返って、その女の子とそこにある部屋の様子を窺った。
板張りの洋間に学習机が二つある。互いに窓を挟んで対称的に本箱を並べて置かれていた。ピンク色のカーテンが、開いている窓からの風に靡いて微かに揺れている。女の子はまだ口を開けて、驚いた顔のままだった。
「アイ?」
二人とも高校生だったのに、まるで小学生のようだ。何年も前の自分が小学生だった頃の記憶を思い出していた。
翠は立ち上がると、床が近くに見える不思議な感覚を持った。床だけではない。学習机の天板の位置が高い。天井も立ち上がっているのに、少しも近付いて来なかった。背だ。背が低くなっている。身長が低くなっていたのだ。
翠はもう一度振り返ると、鏡の中に華奢な小学生の姿があった。
「これが、私?」
小学生の翠を思い出して、自分はその体に憑依したんだと悟った。
「アイ。あなたがやったの? マシロは、どこ?」
幼い藍は、キョトンとしたままだ。
「みどり姉ぇ、学校!」
ランドセルを背負って、腕を引っ張った。翠が言っていることには、まったく無視している。またからかわれているんだろうと思ったのだ。
学習机には、それぞれ五年生と三年生の教科書が並んでいる。片方が翠のもので、もう片方が藍のものだ。それならば、五年生の時間に戻ったと言うことになる。
「みどり姉ぇ、学校!」
藍がまた引っ張った。柱の掛け時計を見ると、七時半を過ぎている。そして、日付は―――
「えっ! 七月十二日って」
藍に手を引かれている。今は大人しく登校するしかない。目の前にいる藍は、どうやらアイではないみたいだ。
しかし、翠は今日がどういう日であるのか忘れる筈がなかった。台所の横を通る時、居間のテレビが今夜の皆既月食のニュースをしている。夕暮れの月の出から間もなく月食が始まると言う。
そうだ。間違いない。今日が、その日だ。小学五年生の七月十二日は、清水玄の私が、クラスメイトの中岡真白を殺す日だった。
でも、何故私はここにいるのだろうかと、翠は考えている。いや、姿は翠だが、中身は違う。月の魔人ヘカテからマシロを救い出そうと、異世界の砦に侵入していた高校三年生のハルカだ。
防御壁の鏡の中で、マシロを目覚めさせようとしている時に、そのマシロの中にヘカテが潜んでいると感じた。そして、そこから逃げようとしていたのに、気が付けばここにいたのだった。
風の精霊のアイがしたのではないのだろうか。ハルカを過去に戻す。そんなことが出来るのは、アイくらいなものだ。
そうだとすれば、何をすればいいのかは決まっている。玄が真白を殺すのを、翠の私が止めればいいのだ。
そんなのは簡単なことだ。
小学生同士ならば、出来ないことかもしれない。しかし、今の翠は見た目が小学生でも、中身は高校三年生のハルカなのだ。異世界に行って、この世界にいた時よりも何倍も逞しくなったハルカなのだ。