鏡の部屋で
砦の最深部は五大精霊たちに守られて、ハルカとハジメを招き入れた。激しい戦闘があったであろう痕跡が、辺り一面に残されていたが、二人が忌みしてしまうのを恐れて綺麗に片付けられていた。
月の魔人ヘカテの最後の防御壁は、中岡真白である。マシロは鏡のような壁の中で、立ったまま眠っていた。少し俯いて穏やかな寝顔をしている。ハルカは小学五年生の時のマシロを思い返していた。高校生の少し大人になっている顔には、確かにあの時の面影があった。
そして、眼の下から耳にかけてできている傷は、ホクロが真っ直ぐに五つ並んでいるように見えた。マシロに間違いがない。ハルカの友達のマシロだった。
ハルカは鏡の壁に手を差し出した。精霊たちはその動作を、固唾を呑んで見守っている。その壁に触れることは出来ない。触れれば、月の呪いを受けて肉体が消滅してしまうのだ。
「ハルカ」
顔色を変えている精霊たちの表情を察して、ハジメが声を掛けた。
「心配してくれて、ありがとう。でも、大丈夫よ。私もマシロと同じ人間だから」
ハルカの指先が壁に触れた。鏡が水面のように波立つ。
ほらね。
そんなふうに口角を上げて微笑むハルカは、心配しているハジメを見返した。
じゃあね。行ってくるね。
ゆっくりと頷いて、ハルカは鏡の壁の中に進んで行った。
ハジメは一安心して、じっとりと滲み出てしまった額の汗を、手の甲で拭った。あとはマシロを目覚めさせて、壁の中から連れ出してくればいい。それで総てが終わる。月の魔人ヘカテは、戻る肉体を失って消滅する筈だ。
ハルカがマシロに向けて声を掛けている。鏡の外からでは、ハルカが何を言っているのは聞こえなかったが、起きなさいと何度も言っているのは確かだった。
マシロはまだ眠っている。穏やかな眠りのまま、その表情に変化はなかった。ハジメを中心にして、鏡の前で精霊たちがハルカの行動を見詰めている。皆既月食の終了は間近なのだ。間に合わなければ意味がない。マシロが目覚めなければ、力尽くで、鏡の外に連れ出せ。総ての精霊たちが気を揉んでいたのである。
ハルカはいくら呼び掛けても起きないマシロの手を取った。立った姿勢で両腕を体側に下ろしている。その右腕をゆっくりと持ち上げた。
ハジメは何か嫌な予感がした。鏡の外から見ていても何も変化はない。鏡の中にはハルカとマシロの二人以外には何も存在しない、白一色で虚無の空間だった。それでもハジメは何かを感じ取っていた。ハルカの危機が迫っている。そんな気がしてならなかったのだ。
マシロの腕を取ったハルカは、次にマシロの頬に触れようと手を伸ばした。しかし、その手は電撃に触れたかのように引き戻された。
「アッ!」
そう叫んでいたのは、ハジメだった。ハルカが引き戻したのは、伸ばした手だけではない。掴んでいた腕を放し、数歩退いていた。
脅えるハルカの顔が、ハジメを振り返った。救いを求めるように両腕を突き出し、ハルカは鏡の外へと向けて駆け出したのである。
「ハルカーーーッ」
ハジメは鏡の中に腕を突き入れようとした。しかし、それは出来ないことだ。周りの精霊たちが慌ててハジメを取り押さえ、無茶な行動を諌めた。
マシロが眠っている。それなのに、ハルカはそれを恐れて鏡の手前まで逃げて来ていた。何があったのか誰にも分かっていない。鏡の中のハルカだけが異常を感じているのだ。
そう。マシロの中にヘカテがいる。ハルカはそれを感じて、逃げ出していたのである。
あと一歩。鏡の中から出るには、ハルカはあと一歩進むだけだった。




