ロイヤルスイートルームで
フロントで名前を告げて、鍵を返してもらった。ロビーの中央には大きなグランドピアノが置かれていて、女性が生演奏をしている。ゆっくりと上体を左右に揺らしながら奏でる曲は、静かで奥行きがある。しばらく待ち人ありの振りをして、僕たちはその演奏に聞き入っていると、出掛けてから三時間以上経っていることを思い出して驚いてしまった。
十八階のロイヤルスイートの部屋に入ると、純白シーツの羽毛掛け布団にくるまった佐藤藍が眠っている。僕たちが出掛ける前と少しも変わらない。小さな寝息を立てて眠ったままだった。
起こさないようにして、リビングルームのソファに静かに腰を降ろして、買ってきた買い物袋をテーブルに置いた。ハルカが少しガサゴソと音を鳴らしてお菓子を取り出して食べている。何だか居心地が悪そうだ。落ち着かない。部屋が広過ぎるんだって、僕は見抜いていた。
このホテルに来て三日目になる。つまり、僕たちが住む世界からこちらに来て三日経ったということ。アイが持っていた髪飾りを売ってお金を手に入れた。積み上げられたお札の束が片手では持ち切れないのって、僕は初めて見て目が飛び出しそうになってしまった。アイはいったいどれほど高価な髪飾りを持っていたのかって不思議に思う。風の精霊の持ち物が常識では考えられない貴重なものなのだなって思い知らされてしまった。
アイは眠っていることが多い。中岡真白と戦って、どれほどに消耗してしまったのかと心配でならなかった。
中岡真白は月の呪力を使う悪鬼だと、アイに教えられた。精霊とは違う種類の魔力を使うそうだ。魔族とも違うって言うから、ハルカは日本語と英語とドイツ語みたいなものなのかなぁって勝手に解釈していた。僕たちがこの世界に来れたのは、アイが精霊の古い呪文を使ったからだそうだ。日本語で言うところの古文みたいな感じなのだろう。頭で理解するには、そんな程度でしか出来ない。
僕の握り潰された心臓が、この街に来た時に辛うじて動いていた。アイの呪力ですぐに回復したが、諦めてしまっていたハルカは、僕の不屈の精神を少しは見習って欲しい。ハルカの為に、そしてハルカを一番に思っているんだ。ハルカのヒーローは、僕なんだよ。
「お帰り。ハルカさん、ハジメさん。街はどうだった?」
「あっ。ごめんなさい。起こしたかな?」
「お買い物は楽しかったかな」
アイには何でも見えているみたいだ。眠っているだけなのに、僕たちが何をしてきたのか知っていた。
「佐藤さんには見えているのね」
「ん? あぁ、精霊になってからは、人の心が見えるようになったよ」
「人の心・・・私の心は、佐藤さんにはどう見えているのかな?」
「それはハルカさん次第ですね」
あはははと笑うアイは、風の精霊には見えなかった。
「あっ、それから私のことを佐藤さんって呼ぶのは他人行儀ですよ。名前で呼んでもらえると、こちらの世界の私もきっと喜びますよ、ハルカさん」
アイは言いながら、ハルカと僕を順番に見た。僕たち二人に言ってくれているのだ。そうしないと親しくはなれない。
ハルカはこちらの世界の藍を気にしている。後輩でありながら、まだそれほどには親しくなっていなかったのだろう。後輩の藍のつもりで接して欲しい。アイがそう言っていた。
「さぁ、アイって呼んでくださいよ。アイさんでも、アイちゃんでもなく。アイって」
「でもね、あなたは精霊で、偉大な人なんでしょう」
ハルカが戸惑っている。ハルカの世界では、精霊は神なのだから。
「そんなのが関係あるんですか。私たちは日本人とアメリカ人みたいな違いでしかないと思っているのですよね。その通りだと思います。私だって今は精霊だけど、元々は人ですよ」
「そうだね」
「はい、その通りです」
また、あはははとアイが大らかに笑う。ハルカの二つ年下の後輩が笑っていた。
「ありがとう。アイ」
「どういたしまして、ハルカさん。あっ、私は後輩ですから、さん付けは当たり前ですからね」
あはははは・・・
あはははは・・・
「あーぁ、お腹が空きました。ハルカさんの手料理が食べたいです。買い物をしてくれてるみたいですから、お願いします」
「あのね、アイ。そんなに私の心を覗かないでね」
「はいっ」
さらさらの髪を揺らして、アイがぺこりと頭を下げた。ハルカにはアイが精霊ではなく、佐藤の妹にしか思えなくなっていた。
ロイヤルスイートの部屋にあるキッチンで、濃い緑色や薄い緑色、それに黄色と赤色の野菜を刻む。このホテルのシェフの腕前には敵わないけれど、今のこの思いを込めてハルカが作る。アイにそれが伝わって欲しいと願いながら料理をしているハルカの笑顔がとても素敵だった。