プロローグ
きしり、と音が鳴る。
目のまえの男の動きは、明らかに異様であった。
少し前までとは明らかに違う、まるで蜘蛛か、そうでなければ悪霊でも乗り移ったかのよう。
私の体から赤い雫がこぼれおちて、広がる様が、どうしようもないほど鮮明に見えてしまう。
ああ、なぜ目をそらせないのだろうか。
痛くて、苦しくて、耐え切れそうもない。
いますぐ絶望に身をゆだねて、現実逃避でもできたら良いのに。
いくらそう思っても、まるで魅入られたように、私の全身は動いてくれない。
――きし、きし、きし、きし。
――きし、きし、きし、きし。
その夜、誰にも届かぬ少女の金切り声が、街のどこかで響いた。
* * * * * * * *
俺はその朝、ゆるい頭痛と共にソファーの上で目覚めた。
体がだるい。何故ベッドじゃないのだろう。そういえば、昨日は友人のやけ酒に付き合わされたような気がする。
「……事件の犯人が昨日逮捕……住民からは安堵の声が…………」
つけっぱなしのブラウン管から、ニュースが聞こえてくる。
開け放した窓からは機械油の匂いと薄いスモッグ。低く唸る発信源のわからない機械音。飛び交う郵便用小型機。
本日も平常運転、いつもどおりの退屈な日常のようだ。
「……の……くりかえし……猟奇的な内容のメッセージ……残虐な行為…………」
(誰の台詞だっけね、ヒーローだか、なんだかは、必要とされた時点で負けとか……)
眠気の中で、キャスターの声を聞きながらぼんやりと思う。対処せねばならない悪の犯罪者なぞいない方が良い。現れてもとっとと捕まってくれれば有難い。平和な世の中こそ一番である。こんなとりとめのないことを考えるのは寝起きだからだろうか、それとも二日酔いのせいか。おそらく両方であろう。
(……うむ、件の事件とやらは、俺のところまでお鉢が回ってこなかったわけだ。なんとも喜ばしいことじゃないか)
そうだ、そう考えれば、自分が仕事もなく、惰眠を貪っているのは素晴らしいことであるとすら言える。
これは勝利なのだ。退屈な日常万歳。我、大義名分を得たり。この平和何人たりとも侵すべからず。
とてつもなく立派な考えのもと、取り立てて心地良くもないソファの上で横になったまま、顔の上に乗せた帽子の位置を調整しようとし……
「探偵」
「……ッ!?」
どす、と腹に鈍い衝撃。重いとは言うまい。何故なら俺は生身部分が多いとはいえ、しっかりと鍛えあげた体を持つ紳士だし、相手は女性である。そう、急遽この素晴らしき平和タイムを破ったのは女性である。それもよく見知った。
「朝飯、とっとと食え。下が片付かん。こっちには店の営業があるんだ」
頭の帽子をどかし、景気の悪そうなその顔を眺める。
浅黒い肌に、薄い水色にピンクのメッシュを入れたショートヘア。
鋭い目つきに不機嫌な表情、さらに冷たい印象を合わせる眼鏡の合わせ技でやや刺々しく見える女。
とはいえ控えめに言っても美人である。スタイルもいい。胸もでかい。
「これで服と匂いがマシならモテるだろうになぁ……」
「何の話だ」
なんでもない、と返しつつ、腹の上に座ったままの状態からどいてもらってどうにかこうにか起き上がる。
そう、なんでもないのだ。女性の不名誉な部分については深くは語るまい。俺は紳士だからだ。
毎朝の襲来について実は内心不満に思っているなどありえないし、彼女が四六時中ぼろぼろの白衣とTシャツとジーンズで過ごし、街中よりも濃い機械油の匂いをさせてる残念な人間であるということを語り広めたりは絶対にしない。俺は紳士だからだ。
決して、彼女から格安で店の二階を住処として貸してもらっているから我慢している訳ではない。ないのだ。
「とっとと格好整えて降りてこい。朝飯はいつものだ」
「やっすい合成ヴルストと代用トーストとコーヒーね……」
スラックスとシャツを替え、サスペンダーを肩に通し、帽子を頭に被り直して鍔を調整。良し、完璧。
……ん、俺が一体何者かって?失敬、言い忘れていた。
数百年前。世界はある科学者の発見を発端に、科学的革新を起こしに起こしまくって、変わっちまった……
らしい。俺らに伝わる以前の世界は、文献で知り得るモノだけだ。
とにもかくにも、余りにもたくさんの発見と進化と引き換えに、いくつもの国家崩壊未遂と、文化的、技術的後退を引き起こした【大躍進】事件。
然して、そんな事があっても人は生きるし、人が生きる限り法というやつは無くならない。そして、いつの世も困り事だけは絶えやしない。
俺の名はダニエル=タカバヤシ。
最先端技術開発の中心地にして、お零れ求めてアウトローがさ迷い歩く、このスモッグ漂うイギリス海上工業アジア人街……通称【黒煙街】で、そんな困り事を解決していく……ナンバーワン(自称)の探偵、ってワケさ。
「……おい探偵、早く、しろって、言ってるだろう」
「痛ぁっ!?……耳はやめてくれよ、耳は!」