第6章
土曜日になった。
仮病をさすがに見破られ、私は車で学校へと送られた。
父は成績などにはうるさくないが、義務には厳しい人だった。
親に監視されながら学校へいく恥ずかしさと、彼女に会わなければならない気まずさで足は重かった。
教室の扉を開けると、仲のいい友達の小春さんが席を立って、急いでこちらへやってきた。
「おはよう……」
「那美さんとけんかしたの?」
彼女の話によると、那美の様子がここ数日おかしかったそうだ。
眠らないのだ。
お昼になると図書室のソファでうつむいたままじっとしていて、教室に帰ってもずっと元気がない。
誰かが話しかけても心ここにあらずで、あやふやな答えしか返さない。
「彼女はどこにいるの」
「それが朝登校するのは見かけたんだけど、教室には来ていなくて。保健室で休んでるのかも」
そうじゃない、彼女は薬の臭いが嫌いだ。古い本の匂いは平気なくせに。
「どこいくの」
「ごめん、探してくる」
「ホームルーム始まるよ」
クラスメートの声を背に、私は走りだしていた。
図書室の鍵はあいていた。土曜日は中からいつも鍵をかけていたはずなのに。
そっと扉を開けて部屋へと入る。
奥から、声が聞こえた。
「う……ぅう……うう」
それはすすり泣きの声だった。
胸が締めつけられるように苦しい。
ひとつ、ふたつ、みっつ目の棚、その奥。
棚の奥には、お姫様がいた。
ただしその姫はこんこんと眠るかわりに、涙をぽろぽろとこぼしている。
ブレザーのそではすっかり色が変わっていて、それでも涙は尽きそうになかった。
「那美」
はっとした表情でこちらをむく。部屋に誰かが入ってくるのさえ気づかなかったようだ。
「若葉」
ぐずぐずの顔に笑みが浮かぼうとしたが、またすぐに消えた。
「若葉、私のこと嫌いになったんでしょ」
私が駆け寄ると、彼女はびくりと体を震わせた。
「違うの、そうじゃないの」
いやいやをするように首を振る。
「だって、嫌だって。私、若葉が本当に嫌なら、あんなことさせない。私、知らないでつきまとってわがままばっかり。嫌いでしょ、こんなひと」
嫌い。そうじゃない、だって私は……。
「私は、那美が好きなの」
涙で潤んだ瞳がじっとわたしを見た。
抑えきれないしゃくりあげが静かな部屋に響く。
「どういうこと……」
「私、おかしい。那美にキスしたいの。那美があのキスのこと気にしてないのが、寂しくてしかたがないの」
そういうと、何も言えなくなってしまった。
涙を制服でぬぐうと、那美はじっとなにか考えているようだった。
「……そうなの」
気持ちの悪いやつだと嫌われてしまう。でも、誤解のまま友情が終わるのは辛かった。
ぽつりと、呟きが聞こえた。
「若葉ならいいよ」
「へ?」
まじまじと見た私に、顔を赤くして彼女はそっぽを向いた。
「若葉がおかしければ私も変なの。若葉なら、かまわなかったの。気にしてないわけ、ないじゃない。ファーストキスだよ。ほっぺにするキスシーンさえ断ったんだから」
ファーストキスという響きにかっと顔が熱くなったが、なにか聞きなれない単語があったような。
「キスシーン?」
なにかに納得したような顔をみせる彼女。
「ここ座って」
そういって隣を指す。立ち尽くしていた私は、少しためらったあと席についた。
長い沈黙があって、つかえていたものを吐き出すように、話がはじまった。
「この学校にくるまで、小さい頃からずっと芝居とかモデルの仕事をやっていたの。母親が芸能界とかだーい好きで、私がそれなりに何でもこなせるからけっこう売れっ子だったのよ」
だから好きでもない芸能界に詳しかったのか。
「でも、あの仕事楽じゃない。子どもは何時以降は働けない決まりがあるけど、レッスンや舞台の稽古もあったし、帰りは12時過ぎることもあった。舞台のセリフを覚えなきゃいけないときなんて、夜眠れなくて。それで……」
「それで」
「全部やめちゃった。中学に入るのと一緒にすっぱり縁を切ったわ。ようやくテレビの仕事が入りはじめてだから、母親が嘆くことといったら」
その潔さはいかにも彼女らしくて、ふふと声を出して笑ってしまう。
彼女は私の肩に頭をこつんともたせかけた。
「私、小さい頃からおなかいっぱいお昼寝するのが夢だったの。だからここで眠ることにしたのよ」
なぜ彼女があそこまでお昼寝に執着するのかがようやく分かった。
「どうして人をまくらにしようなんて考えたの」
声のトーンが落ちて、私の左手が握られた。
「ときどき、嫌な夢をみるの。あんなに短い時間なのに。夢の中で、舞台の上で延々とセリフがでてこない場面とか、着せ替えられては写真が撮られるのを繰り返したりとか、ずっと発声練習をさせられたりとか」
辛いことを辛いと言えないのは悲しかったのだろう。まして、彼女は才能があってきれいだったから、途中でやめさせようという人がいなかった。
「目が覚めたとき、誰かがいればいいなって思ってた。うなされて目が覚めたとき、何度かあなたを見てたの。棚の向こうからちらちらと、悪いことをしている子供みたいにこっちを見ていた若葉を」
そんな恥ずかしい姿を気づかれていたなんて、思いもしなかった。
「それで、キスされて目が覚めたとき、これはチャンスだと。この子なら大丈夫。おどおどしてるし軽く脅せば断られることもないだろうって」
こんどはこちらから、こつんと頭をぶつけてやった。耳の辺りが当たってちょっと痛い。
そんな私の様子にくすくすと彼女は笑い、その揺れが私に伝わった。
「でもね、若葉は私のわがまま許してくれる気がしたの」
安心しきった様子で肩に体を預けてくる。
「若葉に撫でられながら眠ると、いつも素敵な夢をみて。公園でね、手をつないで、歩くの。春真っ盛りの、きれいな緑の木の下で、私笑ってるの。隣にはいつも若葉がいて……」
声が、途切れ途切れになっていく。泣いたのと、自分の事を話したのとで疲れたのだろう。ひょっとしたら私のように寝ていないのかもしれない。
いつしか、いくつもの楽しい夢の話はすやすやという寝息に変わっていた。私も安心したせいで、丸二日分の寝不足が襲ってきた。
「おやすみ、那美」
ふたりで寄りかかりながら、私たちはぐっすり眠った。