第1章
私たちは彼女を眠り姫と呼んでいた。理由は昼休みになればすぐにわかる。図書館の奥にある、童話の棚の前におかれたソファでぐっすりと眠る彼女を見れば。
どうして眠るのかはっきり知る人はいない。噂では病気があって、定期的に睡眠をとらないと意識を失って怪我をする可能性があるからだと聞いた。
だが、彼女の幸せそうな寝顔をみればそんなことはどうでもいい。どこかクラスで浮いていて友人もいない彼女が邪険にされずむしろ愛されているのは、人当たりがいいからだけではなくその寝顔の美しさのおかげかもしれない。
私、木野内若葉もひそかに憧れを抱くひとりだった。
「あ、もうお昼過ぎてる」
空き教室の窓からみえた時計はもう十二時を半分以上すぎていた。
ついでとばかりに近寄って髪を整えた。肩より少し長い黒髪はどっちつかずで、目下伸ばすか切るかを悩んでいる。
学習時間の確保の名目でうちのような中途半端な私立中学校でも始められた土曜登校は、大学生の兄が懐かしいと口にするような半ドンだった。
図書委員の私は先ほどの授業でつかった本の返却を頼まれて、わざわざ職員室に鍵を借りてから放課後図書室へとやってきたのだった。
扉を開けて、学校の規模にしては立派な図書室を見渡す。南窓のある部屋の左手からは秋らしい柔らかな陽が差し込んでいる。かび臭い空気が流れだしてきた。
いつもと違う姿の部屋に少し気後れを感じながら、返却棚へと歩いていく。足音がひどく響いた。
本をどさりと無造作においてすぐに帰ろうとする。
けれど、
「すぅ……すぅ……」
聞こえるはずのない音が聞こえた。寝息だ。
私は手に握られている鍵をみた。特別教室の鍵は職員室にしまわれていて、委員会などの特別な仕事がなければ貸し出しはされない。
規則正しく、気持ち良さそうな小さな寝息。
もしかして。私は足音を忍ばせて部屋の奥に歩いていく。
みっつほど棚を通り過ぎて、その向こうには童話の棚がある。壁際のそこは日が差して冬に暖かく、夏は影になって涼しい隠れスポットになっている。けれど昼休みそこには誰も訪れてはいけない。許されるのはそっと覗くことだけ。
「いた……」
ソファの上ですやすやと眠る女の子。同じ組にいるのにあまり話したことはないが、学校でもかなりの有名人であるその子、名前は柊那美。
腰まである柔らかそうな栗色の髪の毛をソファの上に流し、彼女は愛用のクッションをまくらにして横向きに寝ていた。
普段なら他の生徒の目があって近寄ることなんてできないが、この状況が私に思い切った行動をとらせた。一度でいいから近くで寝顔が見たかったのだ。
しのび足で近づいて、顔を覗き込む。
どうしてこの子は図書室に入れたんだろう。何気なく手を伸ばして頬に触れてみた。
「あっ」
瞬時に手がつかまれる。起こしちゃったかと思ったが、彼女は私の手をしっかりつかんだままゆるゆると眠り続けていた。ひっぱっても、手を解こうとしてもうまくいかない。これ以上強くやったら起こしてしまうだろう。
「やれやれ」
無理に起こすのも気が引けて、私は手を握られたまま彼女が眠るソファの端っこに腰掛けた。どうせすぐに起きるだろう。彼女はいつも昼休みの30分できっちり教室に戻っているのだ。
なにもすることがなくて、彼女をじっくり観察してみる。その頬は差し込む太陽のせいでほんのり上気していて、赤ん坊のような幸福な笑みをわずかにのぞかせている。呼吸のたびに紺のブレザーに覆われた華奢な肩がゆるやかに上下して、すぅという息が手にかかる。スカートから伸びて白い靴下に包まれた足は女の私でも可憐と表現したくなる細さだ。
これではまるで。
「本当にお姫様みたい」
あいている左手で髪に触れた。柔らかい。春先、公園の隅に雨のあと伸びた鮮やかな若草を思い出させるような心地よさだった。ついついそのまま撫で続ける。
こんなに可愛いお人形なら、おもちゃに見向きしなくなった今でもほしいくらいだ。鼻先にふっと甘い香りがかおった。
おかしなことだなんて、そのときの私は気づかなかった。
私は髪の毛にキスをした。慈しむように何度も何度も。
ぞくぞくと、背筋に電気が流れる。まだぐっすりと眠っている彼女。
私は彼女の頬に息を詰めて近づく。キスをする。
まだ目が覚める様子はない。心臓は痛みを訴えるほど激しく動いている。
ゆっくり、彼女の口へとかがみこむ。
寝息が私の口元をくすぐる。
とうとう、私はその小さな唇に唇を重ねた。
ぱちり。
目が開く。ぱちぱちと瞬きをする。
つぶらな瞳が左、右、上、下、と動く。
そしてにこぉという感じで細められた。いたずら小僧が何かを思いついたときみたいに。
まだ唇を離していない私。すっかり硬直していた。
その下で彼女の唇が動く。もぞもぞと開き、閉じる感触。
「抱きまくら、みーつけた」
私はあのお話をすっかり忘れていた。
『紡錘に刺されて百年の眠りについた眠り姫は、王子様のキスで目をさましたのです』