㈤ 事故対応業務
JR中央線は、全国屈指の混雑率を誇る首都圏最大の通勤路線だ。
沿線にはどこまで行っても高密度に住宅が建ち並び、後背人口は数百万人に上ると見られる。それだけの路線だから、必然的に接触を含めた人身事故の件数も多い。そして他路線の人身事故と違い、中央線で多いのは飛び込みによる自殺だった。
中央線の車体を彩るバーミリオンオレンジのカラーリングのせいか、直線的な路線のため接近してくる電車が見えやすいからか。様々な原因が考えられたが、決定的とはどれも言いがたい。しかも近年では自殺対策に様々な手を打っているにも関わらず、どうやら自殺のメッカ的存在となっている実態があるようだった。
しかし、少なくとも新宿駅に関しては、路線に関係なく自殺を試みる人は少ないのだという。
ターミナル駅のため進入時に電車が減速するため、ダメージが減り死にきれなくなる確率が高いからだろう。新宿駅の駅員の間では、もっぱらそんな憶測がなされていた。この駅で多いのはむしろ、混雑するホームから他人に押されて線路に落ち、そのまま電車に轢かれる人なのだ。
それなのに。いや、だからこそ。
あのような話が生じたのかもしれない。
十一番線ホームに下りた時、そこは早くも人でごった返していた。否、中央の騒ぎを取り巻くように人々が後退しているだけだ。
落合や馬場を含め、何人もの駅員が間に入っているのが見えた。頭上で輝く電光掲示が、次の下り高尾行があと一分ほどで駅に到着する見込みである事を伝えている。
「すみません、通してください!」
人波を掻き分けながら勉は声をかけた。完全に他人事だと思っているのだろう、スマホを片手に騒動の様子を写真撮影している人が何人もいる。
めったやたらに喚く数人の学生たち。その間に駅員数名が割り込み、必死に宥めすかしていた。富久もいるのだろうか。そう思い、一瞬だけ立ち止まって背伸びをした勉は、すぐに人混みの向こうに後背の顔を見つけた。
向こうも見つけていた。こっちです、と叫ばんばかりに手を伸ばし、居場所を知らせている。
「いた────」
勉が口にした、その時だった。富久の身体が放物線を描くように、後ろに倒れ込んだ。
何が起こったのか、勉の位置からはまるで見えなかった。ただ、唐突に、富久の姿が消えた。そうとしか見えなかった。
だから、ホーム上の乗客の誰かが上げた叫びに身体を動かすのが、ほんの少しだけ遅れてしまった。
「人が落ちたぞ──ッ!!」
(富久だ!)
悟った勉は無意識のうちに足を動かし、駆け出していた。
何も知らない新たな乗客が次々とホームに下りてきて、そこはもはや過密状態だった。富久の姿はまだ見えない。見えないが、あちこちで上がった悲鳴や怒号で、何となくの場所は把握できる。
「誰が落ちた!?」
どうやって抜け出してきたのか、落合がすぐ横に現れた。分かりません、と勉は息の上がった声で返す。
「ですが多分、駅員です!」
「何!?」
誰か助けろよ、とか、駅員早く来い、といった声が前方で響いている。勉は落合に伴われてホームの人波を突破し、端に出た。あまりの騒ぎに気を取られて、背後で鳴り響く電車接近の案内放送など聞こえはしなかった。
富久が、気色の悪い銀色の線路に挟まれた空間に、倒れていた。
「富久っ!! しっかりしろっ!!」
落合が絶叫した。
線路に落ちた後輩は、弱々しく微笑んだ。後頭部から流血している。バラストか枕木に、頭を打ったのか。
その瞬間、どんと背中から衝撃が来て二人までもが落下しそうになる。
「くっ……!」
勉は必死にバランスを取りながら、顔を歪めた。押さないで下さい、などと背後で他の駅員が叫んでいる。しかし群衆の多くには聞こえていない事だろう。
想定通りの事が起きてしまった、と思った。
勉は線路を、そこに倒れた富久を、凝視した。
不意にその底から、ぞわりと沸き上がるように黒い影が生じた。
男と会話をしている時の勉の様子を、委細まで覚えていた富久は丁寧に話してくれた。
その姿を知って、勉の脳裡にすぐに浮かんだ絵があった。
……それは、轢断遺体だ。
一番最近にこの駅で人身事故が発生した時、遺体回収こそしなかったが勉はホームの安全管理にあたっていて、その時に轢断遺体を眺めている。凄惨な光景と一言で片付けるには、恐ろしすぎる状態だった。辛うじて形をとどめていた目や口には流れ出した血がこびりつき、乾いて固まっていた。その赤黒さのために白目の部分は確認できず、まるでネットで見た怪画像のようであった。
遺体が必ずあのようになるとは限らない。それでも思い当たる節には違いなく、勉はその旨を富久に話した。すると富久は、そう言えば、と言って語りだしたのだ。
──『遺体と言えば先輩、知ってますか。“新宿駅の怪人”の都市伝説……』
知らないと答えた勉に、富久の語った話。それを要約すると、下のようになる。
そもそもは富久がこの駅に配属される前、知り合いの都市伝説マニアから聞かされたのだという。
遡ること十数年前。JR新宿駅の開く時刻は当時から変わらず午前四時台であったが、その際に最初に巡回を行った駅員が、ホーム上であるものを発見した。
それは小さな血痕だった。しかもその血痕は点々と続き、やがてホームの下に潜り込んで消えたという。駅員の報告で急遽捜査が始まり、そしてその結果、ホーム下の狭いスペースから成人男性の遺体が発見された。
遺体がどのようであったのかは不明だが、とにかく保存状態が極めて良く、それにもかかわらず電車に轢かれたのかそうでないのかは定かではなかったという。前日にかけて新宿駅の該当ホームを走行した電車全てが緊急検査を受け、運転士と車掌全員に聞き取り調査が行われたが、そのような事実は何も浮かび上がらない。死因の特定も失敗し、あまりにも不可解かつ不自然な現場を前に、警察を含め誰もが途方に暮れた。
しかし、話がそれだけで済んだならば簡単だった。その後の捜査で発覚したのは、絶命した男が想像もつかないような額面の負債を負わされ、再三に渡ってその筋の人々から借金返済の脅しをかけられていたという事実だった。地方出身だったとみられる男に身寄りは一切なく、その借金そのものも他人に負わされたものだったのだ。
──『しかもそれ以来、夜勤の方々が何回か目にする事があったらしいっすよ。その男の、幽霊』
富久は青ざめた声で話を続け、こほん、と咳をした。
──『そういう都市伝説なんで、実際にそんな事件があったのかどうかははっきり分かってないそうです。現にネットでいくら探しても、事実らしい記事はないですし。でも、それがもし本当なら、先輩も……』
その先を言う事は、なかった。しかし勉は続きが気になって、尋ねたのだ。
──『それって、どのホームだったの?』
富久は即答した。
──『中央本線の発着番線……十一番線だそうです』
「……やっぱり、あなただったんだな」
勉の声は向かいを発車していく特急の走行音に紛れ、自分でもはっきりとは聞こえなかった。
影の正体は数えきれぬほどの腕だった。呻く富久の身体をしっかりと包み込んだ腕は、尚も獲物を求めているのかグニャグニャと動き回っていた。僕にしか見えていないな、と勉は確信した。
視界の隅に二つのLEDライトが煌めき、中央線の車両が進入してきていた。大混乱の中ようやく非常ベルが押され、けたたましい警報がホームを揺るがした。
だが、それではもう遅い。使用されているE233系電車の特性を、元マニアの勉は熟知している。
(そんなに……)
線路に反射した冷たい光を、勉は見つめた。
(そんなにまでして、仲間が欲しかったんだな。あなたは……)
かつて抱いたあの寂情の正体を、事ここに至って勉はやっと理解した。同時に沸き立ったのは同情心か、それとも義憤か。
勉の足はホームの床を蹴り、軌道へと飛び降りていた。ホームから身を乗り出さんばかりに、目を剥いた落合が怒鳴った。
「馬鹿、何をしてる! やめろ!!」
「高田っ!!」
脇に馬場の姿も見えた。見開かれたその瞳孔に、勉は何をしているように映ったのだろう。
何十人と並ぶ乗客たちが、一斉に勉を見ている。こんなに注目されたのは初めてかもしれない。だが勉はそんな事には気を払わず、迫り来る電車をキッと一瞥した。のっぺりとした中央線の車両は、大きかった。視界に黒いたくさんの腕が現れ、視界が一気に狭まった。
富久の前に降り立つ事はできたが、ホーム下に富久の身体を押し込むために方向転換をしている猶予はない。勉はすぐに頭を切り替えた。最後に時計を見たのが十八時、あれから三分も経っていないはず。次に隣の十番線を発車するのは、十五分発の青梅ライナーだ。そこまでの判断を一瞬のうちに行えたのは、もと鉄道マニアゆえの知識のためか、それとも駅構内のスペシャリストたる鉄道員としての意地のためか。
どちらでもいい。もう、そんな事に構いはしないのだ。
勉は富久を見下ろした。なぜですか、なぜ来たんですか。富久の目には涙が浮かんでいた。
その返事の代わりに、勉は富久の身体を少し持ち上げた。そして力一杯、隣の十番線の線路へと投げ飛ばすように転がした。当分はまだ、次の電車が来ない。そう踏んだからだった。
そして自分は、電車を前に動かなかった。たとえ動いたとしても、回避が間に合う見込みはゼロだった。電車は目と鼻の先にいる。
(──僕でいい)
そう、胸の中で勉は告げた。
その時、勉の視界に映ったのは、淡々とした様子で迫り来る電車の全面部だけだった。
目映いヘッドライトの光が、夕方のプラットホームの上を、そして線路の勉を、ぎらぎらと照らしていた。不思議とそこに、音や匂いや震動は無かった。もう既に脳が混乱して、感覚器官が狂ってしまっていたのかもしれない。
勉はそっと静かに、目を閉じた。そしてその直後、駅に進入してきた通勤電車は、情け容赦もないスピードで勉を力強く撥ね飛ばした。
ホームから悲鳴が上がり、静寂を蹴散らした。ぐるんと滅茶苦茶な軌道を描いて飛ぶ視線の先に、届かない腕を懸命に伸ばす落合が、口元を手で覆う馬場が、ショックのあまり目をそらす事もできないでいる同僚の駅員たちが、乗客たちが、ほんの短時間だけ確認できた。
どういう風に飛ばされたのか、勉に知る術などない。理解できるのはただ、全身がばらばらになりそうなほどの四肢の痛みと、深く冷たい感慨だけだった。達成感と言い換える事もできたと思う。勉にとってその衝撃は、あまりにもひどく新鮮だった。
すぐに視界は真っ赤になり、次いで視神経が壊れたのか真っ暗になった。多くの知覚を失って周囲の何もかもが分からなくなった時にはもう、勉の意識はあっという間に暗転していた。
『……誰がお前なんかに、ここへ来いって言ったんだよ』
ち、と舌打ちが聞こえた。
意識が戻ってきている。はっと勉は顔を上げた。そこは線路上だった。
真上には甲州街道の巨大な跨線橋が架かり、少し先にプラットホームが見えた。だが、違う。ここは見慣れたあの新宿駅ではない。それが証拠には隣に特急用ホームがなく、跨線橋も古びている。
勉の他にそこにいたのは、会社員のスーツを着た若い男だった。逆光のせいで顔は暗く、人相をやっと確認できたくらいだった。
「あなたが──」
勉は口にしようとした。だが、喉が喋る事を許さない。
『如何にも。……ついでに言うと、この場じゃお前は話せねえよ』
にやりと男は笑い、口が横に裂けた。
だが、笑みは潮が引くようにすぐに失われ、代わりに怨めしそうに引きつった瞳が、勉を睨み付けた。
『しかしよくも、余計な事をしてくれたな。お前とはもう二度と会いたくなかったのに』
だからって、僕の後輩を巻き込むのか。勉も負けじと睨み返した。しかし男の目付きに、揺るぎはない。
『お前の心は読めると言っただろ。俺の正体をきっとお前はもう掴んでいるだろうが、ヒントを与えやがったのはあの後輩野郎だったからな。それ以外に、特に理由はないさ』
なんという理由だ。気に入らない者をただ排除しようとしているだけではないか。
だが勉は殴りかかりたくなる自分を、必死に制した。男がふっと目を伏せ、線路に目をやったからだった。
『……どうしてお前に来てほしくなくなったのか、お前には分かるか』
イントネーションから、反語とすぐに分かった。
男は暗に「お前には分からない」と告げている。
事実その通りだった。勉は返す言葉が見当たらなくて、黙り込む。男はちらりと勉を見た。
『お前の推測通りさ。俺は昔、目指していた夢に破れて絶望して、死んだ。以来ずっとこの場所で、ひとりぼっちだった。だからお前を誘おうとしたし、他にも何人もの奴をこうして呼び込もうとした。そのたびに、失敗に終わった』
男がたった今口にしたその『事実』は、手にしていた情報をもとに勉の考えていたことと確かに一致していた。
『……けど、同情なんてするなよ』
俯く勉を見て、男は低い声で呟く。
『初めはお前の事、死んだ時の俺の心境とそっくりだって思ったさ。でもな、今のお前は、俺とはあまりに程遠い』
なぜ──。
問い返そうとしたが、口にしないでも男にその疑問は看破されている。
『……お前は気付いてないだろうがな』
男は腰を上げた。そして立ったまま、言った。
『お前には仲間がいる。知らず知らずのうちに、お前はたくさんの生きてる人間どもに気を使われてるんだぜ。そうは思わないか。お前の同僚も、後輩も、上司も、お前の事を気にかけていた』
線路に飛び込んだ勉を見下ろす落合や馬場の顔が浮かんで、勉は唇を噛んだ。
落合は物言いも厳しいし、勉を詰る言葉だって口にする。しかしそれは、本人なりに勉の事を思ってのこと。その指摘を受けてなお、自分でも驚くくらい勉が冷静でいられているのは、それを心のどこかでずっと、分かっていたからなのだろうか。
馬場だってそう、富久だってそうだ。
もしかすると何十人にも上る新宿駅の仲間のほとんどは、そうなのかもしれない。
『分かったら、行けよ』
男は完全に背を向けた。しんと静まり返った無人の巨大駅の構内は、どこまでも見渡せるくらい広く、深く、その中に溶け込むように立ち尽くす男の背中は、儚さを感じさせるほどの朧な暗さに包まれていた。
『少し手を打つだけで前向きになれる、なのに自分ばかり損をしているような顔をして苦しみ続けている。そんなお前が俺は嫌いだ、心底嫌いだ』
僕がここを離れたら、また富久を狙うんじゃないだろうな──。不安になって勉は尋ねたが、はっ、と男は鼻で笑った。
『あんな普通な奴をここに連れ込んだって、俺が余計に惨めになるだけさ。……もう、自棄糞になったりはしない。今まで通りの独り身のまま、別の奴を誘う準備でもするさ』
そうか──。
勉は心の中で呟いた。安堵すると共に、ほんのりとした寂しさがじわりと染みた。
男はもう、こちらを振り向く事はなかった。
『今度だけだからな。次、お前が死のうとしたり何かを放り出そうとしたら、嫌だと泣き叫んでもここに引きずり込んでやる。
────じゃあな』
◆◆◆
ジーワ、ジーワ。
蝉が鳴いている。
「構内にいるんですかねぇ……」
鬱陶しそうな顔をしながら富久は呟いた。その額には絆創膏が貼られているが、数日前まで後頭部に巻かれていた包帯の姿はなく、おおむね昔のような青年の外見に戻っている。
「デッキに樹木が植わってるからね。そっちから改札内に紛れ込んだのかもしれないよ」
「それでお客様に被害が出たら大変ですし、捕まえる訳にはいかないんですかね?」
「必要とあらば助役から指示が出るさ」
「そうですね……」
富久は少し残念そうだ。
2016年に再整備工事が完成したJR新宿駅新南口デッキは、四層の建物のうち四階に高速バス施設、三階にロータリーが配置され、新宿駅の新たな交通結節点となっている。あわせて駅構内も大規模に作り替えられ、穏やかな光に照らされた居心地のいい空間作りに寄与している。
それに遅れることしばらくして、つい一週間前に駅員用の施設もこちらに新設・移動された。仮眠用のベッドや休憩室、シャワーなどが一新され、居住性が大幅に向上。各ホームへのアクセス性は多少悪くなったが、駅員たちの評判は大変によく、かつて使われていた場所を再開発したエキナカ商業施設も盛況だという。
蝉の一匹や二匹、この駅で休みたいと思ったって仕方ないだろう。
ふふ。
高田勉は口のはしに笑みを残して、高い天井を見上げた。構内を走るアナウンスが、二番線を発車する次の湘南新宿ラインの情報を淡々と読み上げていた。
勉は重傷で済んだ。
高速で迫り来る車両を短時間で見ただけの勉には分からなかったが、進入してきたのは最近になって投入が始まったばかりの最新車両だった。現行のE233系とは番台が異なるだけで外見の違いは少ないが、それは加減速性能がやや向上しているタイプだったのだ。
勉の眼前に迫ってきた時点で、車両はかなり減速していた。逃げようともせず正面から向かい合った勉は先頭のカバーにどんと押し退けられ、線路と車両の間の空間に倒されただけだった。むろん身体は固い枕木に打ち付けられて頭には大ダメージが及び、数日間に渡って目を醒まさなかったが、車両に轢かれて目も当てられないような姿の遺体になるよりは何倍もましな結果だっただろう。電車がわずか数メートル先で停車し救出作業が迅速に行われたのも、勉の怪我がこれだけで済んだ理由のひとつだ。
勉は結局、あの男の話は誰にもしていない。あの日、線路の上をぐねぐねと這いずり回っていたあの黒い影を見ていた者はやはり他にはおらず、信じてもらえるとは思えなかった。
そしてその代わりに、今の悩みや疲れの原因を打ち明けた。
もっとも打ち明けるまでもなく、誰もが知っていた。賛同する意見は多かった。独身で友達も多くない勉のことを、同僚や上司が休日の遊びなどに誘い込んでくれる回数が、以前とは比較にならないほど増加した。
迷惑な客もつらい職場環境も、すぐには改善しない。ここは世界一の巨大駅だ。だがそれゆえに、ここには数多の仲間がいる。
今は勉も、かつてほどの疲労を身体に溜め込む事はなくなっていた。鉄道はサービス業だ。サービス業に従事する者として絶やしてはならない、客へ向ける笑顔を浮かべるための余裕が、今は勉のもとにはちゃんとある。
勉はようやく、端を掴むことができたのだろうか。
かつて心酔し、その背中に未来を描いた、あの憧れの駅員に──。
「あ、先輩。あそこの人、手伝ってきます」
不意に富久が言い、勉は指差した先を見た。
転んだ中年の女性が、床にかばんの中身を落としてしまっている。
「うん、分かった」
富久はたたっと駆け出した。
一人になった瞬間、この駅が少し静かになったように感じる。勉は嘆息して、柱にもたれかかった。
その視線は、数十メートル先のオレンジ色の看板に白文字で書かれた『11・12番線』の語に向かっていた。
「……あなたのお陰だよ」
勉はそっと言った。
今となっては感謝の言葉もない、しかし決して届かない存在になってしまった、あの男に。
撥ねられた時に見た幻想の中で、勉は微かな寂情を胸に抱いた。今は、その理由も何となく突き止められたような気がしていた。
男に関する都市伝説のことを、あれから色々と調べてみた。男は危険な組織に怯えていたという。今から思えば、男のスピーカーと化した富久に殴りかかったら男が抜け出していったのも、机を叩いたら閉じ込めが解除されたのも、男の暴力に対する恐怖があったからなのだろうか。
もはや確かめる術のないことだ。あれ以来まだ、新宿駅では人身事故は一件も起きてはいない。つまり男はまだ仲間を捕まえていないのだろう。あの冷たくて淋しい空間に、たった一人で今も立っているのに違いない。
だから勉は、もう一言だけ、付け加える。
たとえ誰もが聞いていなくとも。
「どうせまだ、独りでいるんだろ。僕で良ければ……話し相手くらいには、なれるよ。どう?」
雑踏、走行音、案内放送、そしてまた雑踏。
新宿駅の音は忙しない。たとえ耳を傾けたって、勉の声など届きはしないだろう。
一分待ってみたが、男からの言葉は聞こえては来なかった。
(僕の事、嫌ってたしな)
ちょっと期待してたのにな、と勉は苦笑した。あのとき感じた寂情は、こうしてまだ続いている。
寂しさを乗り越えるために、わざと笑顔を作った。
もう二度と、返事はないのかもしれない。
それでも勉は、きっとこれから先も何度でも、男に声をかけ続ける。この駅に幾多の足跡が重なり続け、かつての記憶に積もり積もって消し去ろうとする限りは。
新宿駅は今日も変わらず、たくさんの人々を抱えながら、時を刻み続けている。
これにて、本作は完結となります。
世界一の巨大駅、新宿。そのホームを舞台としたパニック小説でも書いてみようかと思ったのが、そもそもの発端でありました。JR東日本という具体的な社名を出してしまったため、「お仕事小説コン」への応募はできなさそうです。こんな粗削りの作品、応募したって結果は見えていますが(苦笑)
本作で描いたような駅員の姿が、必ずしも現実と言う訳ではありません。ただ、大混乱が当たり前の新宿駅での激務の向こうに、駅員の方々のたくさんの苦労を浮き彫りにしてみたかったのです。作者自身も迷惑客を目にしたことは何度もありますし、あれが相手では駅員の方々も疲弊してしまうだろうと常々思っていました。駅員は公務員ではありません、会社員なのですから……。
なお、本作は新宿駅、ならびにJR東日本社員の方々を愚弄する意図で書かれたものではございません。
しかしながら内容が内容ですので、そのような感触を与えてしまう可能性があります。ですのでここに謝罪を記しておこうと思います。申し訳ありませんでした。
勉と、謎の男。
二人の生涯が、孤独でなくなることを願って。
2015/08/15
蒼旗悠