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Friend, Fiend.  作者: 蒼原悠
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㈢ 改札業務





 JR山手線の起こした混雑は、未だに解消の兆しが見られなかった。

 季節は行楽シーズン、平日とはいえ都心の電車を利用する人は増加する。しかもそれは言わずもがな、通常の通勤通学客に乗算される。

 山手線が混雑する理由は、東京の鉄道網の構造にある。全ての私鉄やJR各線は必ず山手線の駅を終点に止まり、そこから内側に入る事ができるのは地下鉄東京メトロとの直通路線を持つ一部の路線、そして例外的にJR中央線だけなのだ。従って他路線に乗り換えて別方面に向かおうとする時、山手線の存在は必須となる。

 山手線が止まるという事は、東京圏の鉄道網が部分的に麻痺するのと同義なのである。


『後輩の駅員を唐突に殴り倒した』。

 そんなレッテルを即座に貼られた勉だったが、休むと称して仕事場から引き剥がす訳にもいかなかったらしく、その場で仕事を続けるように言い渡された。駅構内ではまだ混乱が続いていて、人手を余らせるだけのゆとりなど存在しなかったからだ。

 結局その後、背後で落合の監視を受けながら、勉は何とか旅客窓口対応の業務を終えた。どこからあの男が再び沸いてくるか、内心はあらゆる客に対し、怯えが収まらなかった。

 十六時三十分。勉の次の仕事の時間が迫っていた。今度はJR新宿駅最大の改札口である、南口改札での業務だ。




「……ね、聞いてもいい?」


 休憩室で、馬場に尋ねられた。

「何を」

「さっきの事」

 ですよね、と勉は嘆息した。このタイミングで他に何があろうか。

 しかし素直にあの男の話をしたところで、馬鹿にされるか呆れられるのが関の山だろう。まずは問いの正体を見極めなければならない。馬場は答えを待っていたようだったので、勉は頷いて先を促す。

 すると馬場は、勉が思ってもみなかった事を言い出した。

「……高田さ、最近、疲れ気味だよね」

「分かるの?」

「分かるわよ。同期でしょ、私たち」

 それはあまり関係がない気がしたが、勉は力なく首を垂れた。疲れ気味、の方に対して首肯したつもりだったのに、同期でしょ、の方に対してだったと馬場は受け取ったらしい。得意気な顔になる。

「てか、疲れてるのは私も同じだし。アレでしょ? さっきの富久くんの相手、かなり鬱陶しいタイプの人だったんでしょ? 高田じゃなくたって、応対が終わった時にはクタクタになるって」

「それだけじゃないんだけどな……」

「うん、同感」

 あっさりと馬場は肯定する。そして、勉を正面から見つめる。

「けど高田はさ、如何にもクソ真面目って感じの性格じゃん?」

「……なんて言い方を」

「だってそうじゃない。どうせ疲れたり愚痴が溜まっても、吐き出す先も相手も持ってないんでしょ。私はけっこう友達に話したりして解消に努めてるけどさ」

「友達…………」

 確かに、いない。

 いや、いると言えば、いる。しかし同じように鉄道が好きで出来た友達を前にして、仕事の話をしたいと勉には思えたことがない。彼らはかつての勉のように、まだ幻想の駅員の世界に浸っている。それをむざむざ壊すような真似はしたくなかったからだ。

 無言に陥った勉に、馬場は息を漏らした。

「イライラ溜め込むのは勝手かもしれないよ、そりゃね。だけど私たちみたいなサービス業は、笑顔だって仕事のうちなんだから。他人への配慮の余裕を無くした人が、誰かに尽くすような働きをする事なんて無理だよ。駅舎の中でも、外でもね」


 馬場の言うことは、間違いなく正論だ。

 そして、吐き出す先のない怒りや疲労が本人を崩壊させてゆくヒビと化すのもまた、事実だ。

 どうにかしなければこの先ずっと、あの男に付きまとわれるようになってしまう。危機感は焦りを産み、焦りはやるせなさを産む。勉は先刻の馬場のそれよりも何倍も長く長く、溜め息を吐いた。

「……どうしてもだったら、私たち同僚に言ってよね」

 馬場はそんな勉の肩を叩き、壁にかかった掛時計を見上げた。コチン、と乾いた音を立てた時計の長針は、三十分ちょうどを指している。

「ほら、時間が来たよ。……頑張ろ」




 有象無象の人波が、映写機の映す幻影のように眼前を過ぎ去っていく。

 改札の手前に立った勉は、ただ自動改札機が淡々と人々を駅の構内へ放り込んでいく様を、ぼんやりと見ていた。昭和の昔と違い、改札業務は基本的には自動改札機が全て行ってくれる。勉は今、完全に手持ち無沙汰だった。

 とは言え改札業務の存在目的は、そういう事だけではない。ICカード『Suica』の使い方が分からずに戸惑ったまま改札機の前に佇んでいる老人がいる事もあれば、残金が足りずに通過しようとして全速力でバーに引っ掛かる若い新入社員がいる事もある。彼ら或いは彼女らをサポートするための係が、ここのような巨大駅では必要になる。

 それに、楽な仕事でもある。酔漢の増加する深夜やダイヤの乱れた事故直後でもない限り、迷惑な客や大きなトラブルに遭遇する訳でもないからだ。


「ねーね、みどり色のでんしゃにのりたい! きみどりじゃなくて!」

「そうねぇ。どのみち池袋まで行くんだし、じゃあ埼京線に乗ろっか。ほら、あっちのホームよ」

「わーい! 赤いとっきゅうも見れるー!」


 小さい男の子を連れた女性が、愉快そうに笑いながら勉の前を通過した。

 話し相手か、と勉は下唇を噛んだ。勉に家族はいない。妻子がいないだけであって実家に両親は生きているが、その実家もずいぶん遠くにあって、新宿駅の喧騒を理解してくれるような家庭ではない。

 だいたい現状、勉と一番に会話量の多い女性といえば馬場だ。その馬場には彼氏がいると、本人の口からモロに聞いた事がある。彼女や妻など遥かな幻想でしかない。

(さっきの親子みたいな家族が毎日家で待っていてくれたなら、僕も話せたのかな。毎日のように感じるこの苦労も、悩みも)

 絶え間ない雑踏の波間に、勉は哀しい息を吐き出した。高校生らしきカップルが談笑しながら、まるで当て付けのように勉の前を駆け足で通っていった。


 東京には一千二百万人の人が蠢いているという。

 この新宿駅を一日に利用する人──すなわち乗降客数は、JRのみの換算で百五十万人。とすると単純計算すれば、勉は僅か八日間で全都民と触れ合えることになる。

 もちろんそんなはずはないが、それだけの人々が生きているのを勉は日々、目の当たりにしているのだ。

 だからこそ感じる、この孤独なのだろうか。






『聞いたぜ』




 だから、あの男の声が再び頭の奥で共鳴した時、勉は条件反射的に声のした方を振り向いていた。


 今度のスピーカーは、さっきの高校生カップルの、少女の方だった。

 彼女は向こうを向いたまま、上半身だけをよじって顔を勉に向けていた。引きつったあの笑みが、口元にはっきりと浮かんでいた。彼氏の男の子の姿はない。

『連日の勤務で疲れてるんだってなぁ。しかもそこに、さっきの爺さん婆さんみたいな輩がとどめを刺したと』

 つ、と踵を軸にして身体を回転させた少女は、完全にこちらを向いて薄く笑った。少女と勉との間は優に十メートルほど離れていたが、それにも関わらずあまりに鮮明に声が聞こえてくる事になど、もう勉は違和感を感じたりはしなかった。

『そりゃあー、ストレスフルな生活だろうなぁ。やつらはそれが当たり前の権利だと勘違いしてやがるから、余計に始末が悪いよなぁ。お前の気持ちは、よ────く分かるよ』

 お前になんか分かられたくない、よほどそう言ってやりたかった。

(……しかし、見事に誰も気付かないんだな)

 比較的平静を保った頭で、勉はそんな感想を抱いた。あの男のチカラなのかは知らないが、少女と勉との間には誰も入ってこない。そんなのは当たり前の摂理だとでも言わんばかりに、改札口を通過する人々の目には勉と少女の睨み合いなど映っていない。

 人の壁に囲まれた、まるでここは密室。男は乾いた笑い声をぴたりと止めて、勉を見つめた。いや、見つめているのかは分からない。少女の長い髪が、さっきから常に顔の前に垂れていて、それが彼女の目付きを分からなくさせていた。


『……ますます親近感が沸いたぜ、お前に。きっと俺とお前なら、この先いつまでも仲良くしていける気がするよ』


 仁王立ちになった少女の歪んだ口が、開閉する。

 まっぴら御免だ、と突き放すだけの勇気は、勉にはない。でも、男に対する意識がほんの少し変容している事にもまた、勉は気付いていた。



 聞いてみたい。

 この男の口から、答えを聞いてみたい。

 その結果次第では、或いはもしかしたら。


「ずっと知りたかったんだ」

 勉は初めて男に対して、意識的に敬語を外した。少女が眉を動かしたのを確かに確認して、訊いた。


「あなたは、誰なんだ」




 男、いや少女の表情が、ほんの少しだけ曇ったのが見えた。


『……覚えてないね、そんなの』

 少女は足元を蹴った。コッ、と靴先の固い部分が上げた小さな叫びまでもが、鮮明に響いた。

 その答えが返ってくる事も、勉はある程度予想はしていた。あの男はさっき富久の身体で、『俺に正体なんか無え』と言っているのだ。

「人間じゃ、ないのか」

『かもしれないな』

 少女はくくく、と笑みをこぼした。だが今度は勉にも分かる。男が笑っているのは、口元でだけだ。

『けどな、悪いけどそんな事には興味がないんだ。どうでもいい』

「僕は興味があると言って──」

『どうでもいい』

 男は勉の声を打ち消した。

 言い様のない淋しさが、勉の心をすり抜けた。そして同時に、確かに感じた。

 男が、動揺している。


「じゃああなたは、僕をどこに連れていきたいんだ。それもまだ具体的に聞いた事はないぞ」

『楽になれる場所さ』

「そんな場所があるなら、さぞや誰もが行きたがるんだろうな」

『…………』

 無言の反応が、勉に自信を持たせる。

 あんなに不気味で正体の掴めない恐怖の対象だった男が今、徐々に勉と同じレベルの世界に落ちてきている。その感触が、耳や目や手を伝ってくるように分かった。

 しかしだからと言って、勉にどうこうしたいという感情があった訳でもなかった。


 適当でも、こちらが喋り続けていなければならない。そうしなければ主導権を握り続ける事はできない。

 そう思って口を開いたその時、




『お前は』


 それまでそこにじっと佇んでいた少女が、一歩、踏み出した。

 そして歩きながら、問いを発した。

『……俺の事が、そんなに嫌いか』


 迫り来る少女の動きが、ひどくスローに映った。覚束ないその足取りは、相変わらず身体と声が一致してはいないが、もう得体の知れない化け物のようではなかった。

 しかし男の言葉は、勉の胸に深々と突き刺さった。

「僕は……」

『仕事がつらいんじゃないのか』

 少女は畳み掛けた。

『人間ってのは自分勝手だ、人間社会ってのは理不尽だ。その人間社会が世界最高密度で存在してんのが、この東京(まち)だ。お前に限った話じゃねえ、人の世に草臥れて、息が詰まって仕方ねえって輩なんざ、そこらじゅうにいるのさ』

「何が言いたい?」

『とっとと認めちまえって話だよ』

 いつしか少女は自動改札機越しに、勉の目の前までやって来ていた。なあ、と少女は続ける。

『真面目な奴が損をするのが世の中の習わしだぜ。バカ真面目にやってないで、投げ出せよ。一気に気持ちが楽になるぞ』

「……あなたは、楽なのか」

『楽だよ』

 あっさりと男は認める。

『人間界を抜け出すってのは、そういう事だからな』


──“「高田はさ、如何にもクソ真面目って感じの性格じゃん?」”


 ついさっき馬場に突き付けられた言葉が、男の言葉に重なってぎらりと光った。

 勉だって否定した訳ではないが、馬場はちゃんと勉の真実を見抜いていたのだ。もしかするとそんな事、他者から見ればバレバレなのかもしれない。


 だとしたら、だとしても。男の言うように向こうの世界に足を踏み入れれば、本当に楽になるのだろうか。

 勉は少女を見た。少女は口を曲げ、勉を窺うように見上げた。




 この男についていく勇気が、


 勉にはあるか?



 刹那、取り巻く世界から音という音が消えた。

『…………』

 少女がまたさらに一歩、近付いた。ふらり、と勉も引き寄せられた。その時、腰の辺りに何か硬い感触があった。

 冷たく長い形状の箱が、そこにあった。自動改札機だった。

 勉たちJR東日本の社員は、私的利用も可能な特製Suicaを所持している。自動改札機を通り抜けて男のもとに辿り着くのは、容易い事。

 しかし、どうしても動かなかった。Suicaを取り出す力が、手にも、頭にも湧かなかった。


 この自動改札機が、最後の一線だ。渡ってはならない最後の防衛線(バリケード)だ。

 勉の脳裏で、何者かが叫んでいた。

 勉は拳を固く固く握り締めた。少女が何事かを叫ぼうと、口を大きく開くのが見えた。

 その直後だった。



「先輩!!」


 唐突に飛び込んできた富久の声が、沈黙を粉々に打ち破った。

 新宿駅のざわめきが、微かな震動を伴って勉の耳に蘇った。勉が声のした方を見ると、富久が駆けてくる所だった。先輩、と口がまだ怒鳴っている。

「そこ、邪魔になってますよ!」

 その言葉を受けて初めて、勉は周囲に目を向けた。

 ああ、本当だ。自動改札機のひとつを塞いでいたらしい。後ろに溜まった客たちの顔に、露骨なまでに不満の色が浮かんでいる。

「何してるんですか先輩、あんな場所に……」

 尚も言い掛けた富久は、勉の表情を見て何かを察したように、急激に語調が変わった。「あっ──」

「……いや、悪いのは僕だよ。ごめん」

 勉は上の空で呟いた。

 その視線は、次にあの少女に向かった。やはり身体を間借りしていただけだったらしい。先を行っていたらしい相方の少年に呼ばれ、こちらに背を向けて駆け出していく姿が、人混みの中へと消えていった。その口から聞こえた声は、明らかに男のものではなかった。


 あの子について行ったなら、どうなっていたのだろう?

 今となっては、もう、分からない。


「……どうしたんですか、先輩。なんか今日、ずっと様子がおかしいですよ」

 富久の声は不審そうというより、不安そうだった。咄嗟に勉の口をついて出たのは、謝罪の言葉だ。

「……ごめん。さっきは本当、迷惑をかけた」

「いえ、さっきの件はもう謝ってもらいましたし、いいんです。ただ俺──」

「ただ?」

「先輩が、心配です。…………あと、目の病気か何か、患ってるんですか?」


 へっ?

 勉は思わずそんな返しをしてしまった。富久の言葉があまりに意外だったからだ。

「僕は目の病気なんて、生まれてこのかた一度も……」

「だとしたら気付いてないんっすよ! 早めに病院行かなきゃ、ヤバいですって!」

「待って、何がそんなにヤバいの?」

「全く自覚ないんですか?」

 全くない。

 そのつもりで頷い後、目線を元に戻した勉が見たのは、むしろ恐怖の感情もあらわに勉を見つめる富久の姿だった。

「今は普通なんですけどね。先輩、さっき俺が声をかけた時も、殴りかかってきた時も、目の中が真っ黒だったんですよ。瞳と白目の区別がつかないくらい、真っ黒に……」


 勉がごくりと息を呑んだ事に、富久は果たして気付いたのだろうか。

 今、富久から聞いたことの意味が、勉にはすぐに理解できた。勉があの男と話している間、勉の目は異常な様相を呈していた。つまり、そういう事になる。



 動揺する様子を隠せずにいた、あの時の男。

 どこにでも自在に現れ、誰の姿をも乗っ取って勉に話しかける、その能力と執着。

 頻りに誘いをかけてくる、本人いわく『人間界を抜け出』した世界の存在。楽になれるという点ばかりの強調。

 そして、会話中に勉の外見に現れた、異常な目の状態。


 それらの意味する所の片鱗を、勉は確かに今ここで一瞬だけ、見た気がしたのだ。




「富久、今、ちょっと大丈夫?」

 勉の問いかけに、富久はカクカクと首を振る。「窓口の方には他にも人がいますし、短時間なら」

「教えてほしい事がある」

 えっ、と富久の口が窄んだ。勉は強い目付きで、後輩の顔を見つめた。


 分かるかもしれない。

 男の正体が。







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