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Friend, Fiend.  作者: 蒼原悠
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㈡ 出札業務






 鉄道の運行、鉄路の管理、駅の運営や維持に乗客の案内、ダイヤグラムの作成。

 鉄道会社の業務と一言に括っても、その中には数多くの仕事が詰まっている。それぞれがきちんと職務を全うして初めて、鉄道は線路の上を走る事ができるのだ。

 特に勉たち駅員は、鉄道社員の中でもかなり多くの仕事をこなさねばならない職種にあたる。


 駅員は主に日勤と夜勤に分かれ、夜勤は日勤の仕事をほぼ昼夜逆転させて行われる。休み時間はこまめに取られるが、八時頃から十八時頃までと拘束時間は比較的長い。

 そしてその間、彼らは駅の運営に奔走する。

 例えば、改札業務。自動改札機が故障したら対応に走ったり、ズルをして通過しようとした人を捕まえたり、上手く通れない人を補助したり。

 例えば、案内放送業務。次の電車の到着時刻を伝えたり、接近する電車にホームの際の乗客が触れないよう注意喚起を行ったり。

 例えば、ホームの清掃業務。例えば中間精算事務業務。例えば夜勤担当者への引き継ぎ報告書作成業務。

 多種多様の業務が、彼らをいつも待っている。鉄道はサービス業だ、生半可な仕事では許されない。


 しかし。

 駅舎にはその業務内容以上に、駅員たちを苦しめるものが存在するのだ。






「……はぁ」


 さっきの騒動以来、身体が妙にくたびれてしまって、上手く動かない。

 時刻は十五時、あと三時間と少しくらいで今日の仕事も終わりだ。勉は休憩室の入り口を出て、力一杯伸びをした。

 と、その前にぬっと男が姿を現した。

「高田、ちょっといいか」

「……何でしょうか?」

 勉は露骨に嫌な顔をした。そこに立ったのは勉の上司、落合(おちあい)祐作(ゆうさく)。JR新宿駅の助役の一人だ。

 新宿駅はJR線単体だけでも巨大な駅ゆえ、担当の駅長だけでは到底駅員たちを管理しきる事ができない。そのため、中間管理職にあたる助役が数多く配置され、駅員たちの管理にあたっている。その一人が、この落合という訳である。

「今、暇だろう。ちょっと『みどりの窓口』に出てやってくれ」

「え、それは」

「富久が面倒な客に絡まれていてな。俺はまだ手が離せないから、サポートを頼む」

 みどりの窓口は、JRが運営する旅客窓口だ。

 勉の顔のシワがさらに増えた。あ、と奥から出てきた馬場が口を挟む。「私が行きましょうか?」

「馬場は俺を手伝ってくれ。提出してもらった各自のスケジュール表、さっきうっかりして散らかしちまってな」

「またですか、それ……」

 僕を使いたくないんだな、と勉はすぐに理解した。以前に落合が同じトラブルを起こした時、勉が下手に手伝って紙を破いてしまった事があったから。

(……仕方ない)

 行きたくもなかったが、勉は拳をぎゅっと握り締めた。


 こういう大きな駅だからこそなのかもしれないが、新宿駅には様々な乗降客が押し寄せ、往来する。中には迷惑極まりない言動をする人もいて、しかもその数は夕方になればなるほど増加する。

 これがまた、駅員の精神を容赦なく抉るのだ。理不尽な要求やクレーム、果ては酔った勢いでの罵言や暴力。そういうものを平然と叩きつけてくる客が、毎日のように出没する。当然ながらその攻撃を受けるのは全て駅員であり、時には他の駅員や助役を呼んでの騒ぎに発展したりもする。本来なら、れっきとした威力業務妨害として扱われるべき事案なのである。

 さっきホームで遭遇したあの男だって、声と身体とが不自然に解離してさえいなければ、きっと勉はいつも通りの迷惑客として扱っただろう。

 駄目だ、あの男の事を考えてはいけない。考えれば考えるほど、気になってしまうから。勉は懸命に足を動かし、指示された『みどりの窓口』に到着した。


 なるほど、落合の言った通りだ。

 三年ほど後輩の駅員・富久(とみひさ)(まさし)が、厳つい顔をした老夫婦を前に困惑の表情を浮かべている。勉が駆け寄ると、老夫婦の語る声がより鮮明に聞こえてきた。

「──だからね、あたしたちはきちんと弁償してくれんのかって言ってるの! 余計な前置きなんかどーだっていいのよ!」

「どんな理由にせよ山手線が遅れたのはあんたらの責任だろ!? だったら乗り損ねた特急の料金は、当然あんたたちが支払うべきだろう! こっちはわざわざ遠い町から出てきて、あんたらの特急に乗ってやろうって立場なんだよ!」

 勉の存在にようやく気づいたらしい富久が、こちらを振りあおいできた。どうしましょう先輩──、そんな声が聞こえてきそうだ。

 自社の路線内の遅延でこうした事態が発生した場合、JR東日本の場合はきちんと払い戻しが行われる。そのことは勉も知っているし富久も説明を受けているはずだが、この剣幕を前にしては頭が真っ白になるのも仕方なかろう。それに根本から真っ当に説明しても、こういう人たちは素直に耳にしようとしてはくれない。経験上、それは嫌というほどよく分かっている。

「お客様」

 勉は富久に代わって老夫婦の前に座った。

「なんだあんた、責任者か」

「担当の者が失礼を致しました。料金の払い戻しは適切に行わせていただきます。該当の列車名を伺えませんでしょうか」

 下手に、とにかく下手に出なければ。勉は頭を下げた。見下ろしてくる老夫婦が、ふん、と揃って鼻を鳴らした。

「なんだ、やれば出来るんじゃないの」

 老婆の方の語調が弱まっている。よし、と勉は掴んだ手応えに口を歪める。

 だが、ストレートに解決できそうだ、などと淡い期待を抱いたのも一瞬。もう一人が苦い声でその背中を撫でた。

「金だけで済むと思っているのか。わしらはさっきから頭にきてるんだ、お前さんたちの不遜な態度でな。謝罪が足らん、もっと謝れ」

「……そ、そうよ。謝りなさいよ」

 しまった、頭を下げさせたいタイプの客だったか。勉は己の失策に気付いた。

 もっとも、もう既に頭は下げているのだが……。ともかく機嫌を損ねないようにして、早急にここから出ていってもらった方が得策だろう。さっきから『みどりの窓口』内の空気が、かなり険悪になってきている。

 勉は机に額をつけた。恥じらいなど、もはやなかった。

「その節に関しましては、お詫びのしようもありません。あとでよくよく言い聞かせておきますゆえ、どうか……」

 ち、と舌打ちの音が聞こえた。目の前の二人がゆっくりと腰を上げるのが見え、勉は眼差しを老夫婦に向ける。危機は、去ったのだろうか。

 どことなく偉そうな歩き方で自動ドアを通過しようとした老婆は、つと勉を振り返った。そして、

「おたくの特急なんて、二度と乗るもんですか」

 それだけ吐き捨てて、去って行ったのだった。


 気分は最悪だった。それ以下かもしれないが、それ以上ではない。

「……何とかなった」

 どさりと椅子に腰掛けた勉を、富久は不安そうに覗き込む。「すみません先輩、俺のせいで」

「いや、いいよ」

 勉は情けなく手を振った。頭なんて下げ馴れてるからな、とは付け加えたくなかった。

 新宿駅に一年ほども勤めていれば、どんな精勤の真面目な駅員であろうと必ず経験する事だ。富久はまだ入社して数ヵ月しか経っていないが、今回はタイミングが悪かったのだろう。

「……先輩、強いんですね。あんな言葉を浴びせられても、ほとんど微動だにしていませんでした」

「慣れっていうのは、そういうモノだから」

「…………」

 強い皮肉に気付いてしまったのか、富久は黙ってしまった。




 勉には分かっていた。

 これこそ、このどうしようもない倦怠感と不快感こそが、勉の就労意欲をどんどん失わせている事が。


 鉄道業務への就職は、子供の頃からの悲願だった。

 勉は鉄道少年だった。家の近くの踏切や跨線橋に行っては、凄まじい速度で風を切り走ってゆく電車の姿を目で追いかけるのが楽しくて、毎日のように夢中になったものだった。成長し、就職を考えるようになるその直前まで、勉は旺盛な鉄道マニアのままであった。

 駅員は格好いい。運転士や車掌や整備士もいいが、勉にとって最大の目標だったのはやはり駅員だった。発車する電車の横で指や腕を振って指示を出し、どんな人にも親切に対応する駅員の姿には、鉄道マニアとしても、そして人としても、憧れた。


 しかしそれがいざ叶ってみれば、そこにあったのは知られざる駅員の『実態』だった。

 連日押し寄せるクレームや暴力への対処にとどまらず、時おり発生する人身事故の対応や轢断遺体の回収、不透明な昇格システム、短い睡眠時間……。

 こんなはずじゃなかった。駅員はもっと爽やかに、駅を利用する人たちの親身になって色んな事をしてくれるはずじゃ……。酔客の吐いた吐瀉物を処理しながら、最初に勉がそう思ったのはいつの事だっただろうか。ただ、自分の境涯が、或いは未来がひどくひどく惨めに思えた事だけが、今は記憶の隅に残っている。

 入社して、はや数年。その間、日々たまっていく不満をずっと勉は抑えてきた。しかしそれが今、体調の悪化やイライラなど身体に順調に現れるようになってきている。勉がこの仕事を辞めたいと思うようになったのには、そういう経緯があるのだ。


(でも)

 ちらり、視界の端に富久の姿を入れ、勉は目立たないように肩の力を抜いた。結果的に抜けてしまったと言う方が適切かもしれないが。

 同期の馬場も助役の落合も、みんな勉と同じ目に遭ってきているはずなのに。勉と違ってあの人たちは、この仕事に関して文句の一言も垂れていた事がない。

(富久(こいつ)もやがては、そうなるのかな)

 まだまだ若いその背中を見つめ、勉は呟く。

 ああ、きっとそうなのだろう。そうしていつか勉の業務成績など簡単に上回って、やがて管理職へと上っていくのに違いない。


 だとしたら、それは……寂しい。

 こんなに人の集う街の、こんなに人の行き交う(くうかん)の中なのに。







──『ほうら、また暗くなった』




 その声が聞こえた時、勉は自分の背筋が完全に氷結してしまったかと思った。

 さっきの声だ。ホームのベンチに座っていた男が発した、あの声だ!

 勉は反射的に、あの男の姿を探した。ははっ、と小馬鹿にしたような笑い声が耳元で響く。

『どこ見てんだよ。俺なら、ここにいるぜ』


 明らかに富久の方向からだった。

 瞬間、最も嫌な想像が勉の身体を駆け抜けた。自分の斜め後ろに座ったままのはずの後輩を見るのが怖くて、勉は膝をぎゅっと握り締めた。

 駄目だ、見てはならない。首を振ろうとすると、声がまた響き渡った。

『ニブイねぇ、さすが。じゃあ俺から見に行ってやるよ』


 瞬間。

 勉の前に、ぬっと富久の顔が回り込んできた。



「…………────!」

 勉は声を上げそうになった。

 ああ、目が黒い。大きい。不気味すぎて鳥肌が立つほどに、富久の瞳は開かれている。表情そのものがコントロールされているらしく、人懐っこそうな元の富久の印象は、もうその姿からは受け取れない。

 その『富久』は勉を一瞥し、さも楽しそうに肩を震わせる。

『おいおい、そんな怖い顔で睨むなよ。勘違いするなって、俺はお前と仲良くなりたいんだ』

「…………」

 仲良く、と勉は口の中のみでその語を反芻した。決して男に聞かれてはならない。聞かれたらどうなるか、考えたくない。

『なぁ、すこしは考えが変わったかよ。さっき会った時からよぉ』

 富久の姿をした男は、椅子の背もたれに身体を預けてギシギシ前後に揺れる。『ここじゃ暇だし寂しいんだよ、俺も。誰も彼も無表情に通り過ぎるばっかりで、俺が声をかけたって気づきやしない。ここひと月くらいは特に酷くてさ、お前が久々の相手なんだ』

「…………僕は、あなたが誰なのかを知らない」

 辛うじて喉から押し出した声は、疲れのためか酷く掠れていた。富久の口が、にんまりと裂ける。

 勉は、己の心の余裕が順調に失われていっているのが、手に取るように分かった。ただでさえ草臥れているのに、余計な事を考えたくなかったのに。こんな、最高級に訳の分からない相手を前に、意味不明な問答を繰り返さなければならないなんて。


 この男の言う『仲間』とは、何だ?

 それは本当に、楽な世界なのか……?




『俺に正体なんかねぇよ』


 男がさっきの勉の問いを鼻で笑ったのは、その時だった。

『俺に正体なんか、もう、無え。その代わり誰にでも化けられるけどな。──当然、お前にだって化けられるんだぜ? 自分が勝手に操られる気分ってのは、さぞ気持ち悪いだろうなぁ。ははははははははは────』




 男は心が読めるという。

 だったらその瞬間、勉が怒りの臨界点を突破してしまったのが、解らなかったのだろうか。


 勉は富久に掴みかかった。

「この野郎! 言わせておけば、調子のいい事を────!」

 本気の拳が左頬に命中し、口元から血が弾け飛ぶ。だが勉にもはや容赦はない。さっきから溜まりに溜まっていたイライラの発端は、全てこいつだ。誰が何と言おうとこいつなのだ!

「みんな話を聞いてくれない、僕が最初の相手だって!? 僕を舐めるなッ!!」

 ガン、と富久の頭が机上で跳ねた。口から勝手に飛び出し続ける言葉たちが、そのまま勉の今の思いに挿げ変わっていく。

 駄目だ、これでもまだ足りない。三たび勉が腕を振り上げた、その時だった。


「……や、やめてください!先輩!」


 富久本人の、声がした。

 はっと我に返った勉の網膜に、富久の顔が映っていた。その瞳は、見慣れたいつも通りの締まった黒目だった。その口は、茶目っ気がありながらも基本的には実直な富久らしい、少し微笑み気味なラインだった。

 今、目は怯えと怒りでゆらゆらと揺らぎ、唇からは血の筋が流れ出している。

(やられた…………!)

 勉は腕を保つ力もなく、呆気なくその場にへたり込んだ。周りの駅員たちが何だ何だと顔を覗かせ、窓口の前に並んでいた客たちが顔を真っ青にしている。奥の方からばたばたと足音がして、落合や馬場が駆け込んできた。


 初めから、これが目的だったんだろうか。

 勉の現実を破壊し、否応なく自分の世界に引きずり込まれる状況を作り出す。

それが、男の目的だったのだとしたら?




 勉は落合の雷を喰らった。

 これ以上ないくらい怒鳴られ、口にしようとした言い訳は片っ端から遮られた。もっとも勉にしても、ほとんど言える事など何もありはしなかった。

 富久には何度も謝らせられたし、言われなくても謝るつもりだった。富久は謝罪を聞いてはいたが、果たしてそれが心の深部にまでちゃんと届いていたのかどうか、勉には甚だしく疑問だった。

 やがて落合は軽蔑するような目付きを勉に向かって投げ棄て、去って行った。




 がっくりと椅子に座り込んだ勉の頭を、じわりじわりと恐怖が汚染させていった。


 もう、逃げ場はどこにもない。奴はどんな場所にだって現れる。

 そんな恐怖だった。








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